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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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と私は言いながら、それよりも先程の大徳法師様の話が気になって仕方がありませんでした。『この流行病には悪意を感じる』と心の中で呟いて、私は安宿へと玄ぼう法師様と急いだのです。 
 目的の一つである書物や経典も順調に収集し、その合間に陛下から多大な厚意を寄せられ、あっという間の一年で御座いました。普照法師様と栄叡(えいえい)法師様は、最初からの予定通りここに残って日本へ来てくれる僧を探すこととなりました。今回私朝元と共に日本へ帰るのはまず下道真備様、玄ぼう法師様、審祥法師様、その師であり栄叡法師様達から来日を勧められた唐僧の道?(どうせん)様、真備様に付けられた従者であった唐人の袁晋卿、同じく真備様の婆羅門呪術の師である婆羅門僧菩提僊那様、玄ぼう法師様の密呪の師である林邑(ベトナム)僧仏哲様、同じく玄ぼう法師様が私に世話を押し付けられた波斯(ペルシア)医の李密翳、一族の秦大麻呂、以前は朝衡様で今は玄ぼう法師様のの従者である羽栗吉麻呂とその二人の息子である翼と翔、残念ながら唐人であるその奥様は帰朝を許されませんでした。そして最後に、司馬承禎様の勧める藻(みさお)と云う娘で御座いました。出航の日、司馬承禎様は藻と呉?様の他にもう一人の少女を連れてきて、我らに引き合わせたのでした。
「くれぐれも藻のことを宜しくお願いしまする。それから、藻がわしの元を離れるので、新しく私の従者となる太真と申す女冠(女道士)じゃ。見知っておいてもらいたい。」
「太真(後の楊貴妃)と申します。宜しくお願い申し上げます。」
 そう言って面を上げたその姿は、そこにいる男共全員が振りかえる程の美貌で、それは一つに彼女が李密翳と同じ波斯(はじ)(ペルシア)の血が明らかに流れているからだと思われま
した。また道服を着ていた所為で見たことも無い程胸が膨らんでおり、しかも色白なのでまるで光輝いているかの様に思えたのでした。一族の教えで、夫婦は添い遂げるべきと教えられてきた私でさえ見とれてしまっていると、玄ぼう法師様がこう耳元に囁かれました。
「気を付けろよ。真備からも頼まれているのじゃが、藻も太真も人では無い。」
「えっ、では何なので御座いますか?」
「今はまだ分らぬ。敵が味方か、良く見定めねばならぬぞ。」
「はい、でも司馬承禎様のご推挙なら、我らの味方なのではありませんか?」
「それが分らぬと申しておる。味方ならば、二人ともあの様な妖気を発しているのは怪し過ぎる。お主でもあれは感じられるだろう。」
「はい、確かに。でもそれ以上は何も分りませぬ。」
「拙僧にも分らぬ。分らぬからこそ注意せよ、と申しておるのだ。分ったな。」
「はい、承知致しました。」
 それだけ言って、玄ぼう法師様は話を終えられました。挨拶が済んで太真様が後ろに下がろうとした途端、つまづく物も何も無いのに、太真様が転びそうになったのです。彼女を見つめていた男共は、あっと息を呑んだのですが、幸い傍らにいた呉?様が黙って彼女を支えたので大事には至りませんでしたが、靴が片方脱げてしまったのでした。承禎様がそれを見て、
「何をしておる。早く靴を履くのだ。」
と言うと、太真様も照れ笑いをしながら、
「はい。」
と一言答えられ、靴を履き直されたのです。恥ずかしながら、その行動をつぶさに見ていた私は、太真様が肉感の有る上半身に比べ、異様に足が小さいことに気付き、『あれでは転ぶのも仕方が無いな。』と考えたのでした。二人はその後、男達の見守る中、連れ添ってその場を立ち去ったのです。
 因みに下道真備が唐の地に密かに作られた妻阿史徳様、四人の息子与智麻呂様、書足様、稲万呂様、真勝様は、妻の帰国は羽栗吉麻呂同様不可能だったのですが、こちらは息子達もまた幼い者が多く、再会を誓って涙ながらに別れたのでした。それとこれは後で伺ったことで御座いますが、例の井(いの)真(ま)成(なり)様は我らの出航後、まもなく亡くなられたそうに御座います。私は面識は御座いませんが、真備様や玄ぼう法師様・審祥法師様はそれをお聞きになって、さぞ悲しんだことだろうと思われてならないのです。
 かくして唐の年号で開元二十二年、日本の年号で天平六(西暦七三四)年十月、船は蘇州
の港を出たので御座います。しかし、しばらく遣唐使船は無事な航海を続けていましたのに、今回はそうはいきませんでした。遣唐使船は全部で四隻なのですが、四隻とも東海(今の東シナ海)へ出た途端、激しい暴風にさらされたのです。私を含めた主だった方達は皆第一船に乗り込んでおられ、下道真備様と玄ぼう法師様の二人が必死で嵐が静まる様に祈祷をなされたので、第一船は何とか多禰島(たやしま)(種子島)に漂着出来たのでした。船が島に着いた時、下道真備様と玄ぼう法師様は祈祷で疲れ切っているにも拘わらず、また私の耳元に囁かれたので御座います。
「玄ぼうと祈祷の最中、私が何を見たと思う? 狐だよ。尾が九つもある化け物狐だった。」
「きっと、あれが藻の正体に違いない。何故ならあの嵐の最中、藻はずっと薄ら笑いを浮
かべていたのだからな。自らが起こした嵐なら、何も怖いことはあるまい。」
 二人の言葉に対し、私も何と答えて良いのか分らず、黙って彼らに両肩を貸したので御座いました。
 第二船は、副使様の他に唐僧道?様や婆羅門僧菩提僊那様、林邑僧仏哲様、袁晋卿、波斯(ペルシア)医の李密翳が乗っておられましたが、越国(ベトナム)へと漂着してしまい、二年後、改めて日本へと出航し、無事辿り着いたのでした。途中大宰府に立ち寄り、行基法師様達の歓迎を受けたそうで御座います。この様な理由で李密翳の来日が遅れた関係上、玄ぼう様の目論見も二年遅れてしまったのでした。
 第三船は、崑崙国(ベトナム付近)に漂着したものの賊に襲われ、乗組員は崑崙国王に保護されて命だけは取り留められたのでした。しかしそのまま監禁状態にされてしまい、翌
年玄宗皇帝の使者が引き取りに来て、ようやく長安に辿り着いたので御座いました。朝衡様の薦めにより、折り良く渤海国の者が日本へ使者を送ることになっていたので、その船に便乗させてもらって無事日本へと帰れたのです。最初に唐を出てから、既に七年の月日が経っておりました。
 第四船は、そのまま嵐の為沈没したと思われます。
 
第八章 皇后と皇太夫人
三十(みそぢ)あまり二つの姿そなへたる昔の人の踏めるぞこれ(光明皇后作、万葉集所収) 
 さて、天平七(西暦七三五)年には、遣唐使船第一船の面々は奈良の都に辿り着いたので御座います。一つ気になったことは、漂着した多禰島(たやしま)(種子島)まで一緒だった藻(みくず)が、そこでどこかに消えてしまったことです。そこで私は、すぐさま下道真備(しもつみちまきび)(後の吉備真備(きびのまきび))様と玄ぼう法師様に藻の行方を尋ねてみました。それに対し、玄ぼう法師様がこう答えられました。
「きっとわしらに正体を見抜かれたと思ったのであろう。どこを探しても見つからぬ。きっと逃げたのだ。」
「左様で御座いますか。」