一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と尋ねると朝衡様は、心の中を見透かされて慌てて作り笑いを浮かべ、
「いや、そうでは無いのです。実は私と井(いの)真(ま)成(なり)は今度の船で日本国へ帰る気は無いのです。」
と仰られました。
「えっ、あ、勉強の都合で御座いますか?」
「井真成は流行病に運悪く罹ってしまいましてな。もう、危ないらしい。私は唐の官吏となってしまい、皇帝陛下にも気に入られ並々ならぬ恩を受けている手前、倭に帰るな、とこの間も釘をさされ、それを裏切る訳にもいかぬのです。それに、まだ使命が残っておりますし。」
「あぁ、金烏玉兎集はまだ見つからぬので御座いますか?」
「はい、陛下も何処に在るかご存じないと仰るのです(無論その時、自身が去勢刑に処されてしまったことは誰にも伏せていた)。術を使っても分らぬし、ほとほと困り果てているのです。」
「左様で御座いましたか? それはご苦労なことで御座います。」
「ところで朝元様、陛下が是非とも亡き弁正様の忘れ形見と会いたい、と仰せなのです。宜しいですか?」
「分りました。」
そこで玄ぼう法師様が、横から口を挟まれました。
「そうか、短い間しかおられぬが、わしも法力を駆使して探してみよう。」
「お願いします。」
と、朝衡様はあまり期待してない風に答えられたのです。別に玄ぼう様の力を見くびっているわけでは有りませんが、頼りにしている様な口調で言うと、玄ぼう様はすぐ調子に乗って高飛車な態度をしてきそうだからなのでした。それからすぐに、我々は陛下の元へ案内されたのです。陛下は後宮におられ寛いでおいででしたが、私共が来ると、後に高力士様と分かる大きな方と道服の二人と共に万面の笑みを浮かばれて歓迎なさいました。部屋の傍らには、例の鍾馗(しょうき)様の肖像画が暇そうに飾られてあります。
「良く来た。そちが弁正の下の息子の朝元(ちょうげん)か?」
「玉顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。御意の通り、私が弁正が一子、朝元めに御座い
ます。」
と、私は平伏してそうお答えすると、
「堅苦しい挨拶は先程済ませてもう十分だ。面を上げてもっと近くまで寄ってくれ。」
と仰って下さったので、立ちあがってお近くに行くと、陛下はさらにお続けになりました。
「おぉ来たか、来たか。朝元の顔はどうやら母親似の様じゃの。お主ら一家のことは朕も誠に残念であった。だがその敵である病魔は既に退治したぞ。景教とかの僧が、自らの命をかけて祈祷で調伏しおった。今は朕の手厚い庇護を受けておる。僧らに聞く所によれば、朝元も景教の者共を知っておるとか。誠に天晴れな奴らだ。」
「はい、良く存じています。」
「あ奴らは、青い目の僧達だそうな。道士の司馬承禎(しょうてい)も負けておれぬな。」
「恐れながら、拙僧がここにおれば、もっと早く調伏していたことでありましょう。」
と、傍らにいた玄ぼう法師様が口を挟まれたのです。私はこの言葉を聞き、初めて玄ぼう法師様達が来た時、長江の河口の港と法師様と別れた折、ひどく不安になったことを思い出しておりました。
「そちは誰だったかな。」
「恐れながら、拙僧は玄ぼうと云う日本からの留学僧に御座います。」
「そちの法力の方が勝ると申すのか。ならば今すぐここでその証しを見せてみよ。朕は戯言は好かん。」
「はっ、承知致しました。」
玄ぼう法師様は、手を合わせて何やら呪文を唱えておりましたが、その先には陛下の碁盤と碁石が置かれてありました。玄ぼう法師様の祈祷が続けられますと、やがて碁石の入
れ物の蓋が外れ、そこから無数の白と黒の碁石が飛び出し、互いの入れ物へと殺到し、つ
いには入れ物の中身が入れ替わってしまったので御座います。それを見られた陛下は、
「天晴れ、天晴れじゃ。倭国へなど帰らず、朕に仕えるが良い。」
と言われたので御座います。玄ぼう法師様はそのお言葉に対し頭を一つお下げになると、
「せっかくのお誘いですが、そういう訳には参りません。私が戻るのを、日本国では首を長くして待っている人がおられるのです。」
と仰いましたので、『えっ、それは誰? 確か玄ぼうは天涯孤独だった筈では無かったか。』と私は思ったのですが、口には出しませんでした。
「そうか、それは残念だな。術を見せてくれた褒美として紫の袈裟をやろう。それにしても朝衡と言い、真備と言い、玄ぼうと言い、遣唐使の使節は人材だらけじゃの。朕は朝衡を得ただけでも良しとせねばいかんか。」
と陛下はもらされ、一同をほっとさせました。すると横に立っていた道服の男が、黙ってお辞儀をしたのです。私も返礼致しますと、
「朝元様、玄ぼう様、お初にお目に掛かります。司馬承禎と申します。こっちは弟子の呉?(ごいん)と申します。」
と司馬承禎様が傍らの者も紹介しながら答えると、陛下が言葉を続けて、
「実はな。遣唐大使の方には正式に朕の方から依頼するが、承禎の保護している倭の娘を一人、一緒に倭に連れて帰って欲しいのだ。可哀そうにここへ売られて来たのだが、縁有って承禎に保護されて育てられておったのだ。だがやはり亡き両親のいた倭に帰りたいらしくてな。それで泣きつかれた奴が、今度は朕に泣きついてきたという訳だ。何分よしなに頼む。」
と仰られると、司馬承禎様と呉?(ごいん)様の道服の陰から、少女が一人出てきてお辞儀を一つしたので御座います。
「名は藻(みくず)と申しまする。」
と承禎様が仰られました。その少女を見て、傍らに控えていた朝衡様と真備様は顔を見合わせていました。その後、陛下と碁を打ったり、大変な歓待を夜遅くまで受けたりしていましたが、真備様が物影でそっとこう申されたのです。
「あの司馬承禎の連れていた藻とかいう娘に気を付けろ。ただの小娘では無い。」
「ただでは無いとすると、何なので御座いますか?」
「分らぬ。司馬承禎様にも確認したのだが、笑って取り合ってくれぬのだ。とにかく、あの藻と云う少女に出会った夜以来、あの娘は成長しておらぬ。少女の頃の十三年は長い。今日初めて分った。今まで良く説明出来なかったが、今日確信した。あれは人で無い。」
「とは言われましても、陛下の御意では私にはどうしようもありません。」
と言って、私はどこか信じられぬ気持でおりました。
「仕方が無い。帰りの船では私が同船して良く監視しよう。」
と真備様は仰って、両手を組んで何か考えておいででした。
翌日、私は真備様の案内で玄ぼう法師様を伴って長安へ、私の一家の弔いをしに行って参りましたが、その一方授戒僧を求めて渡唐した栄叡法師様と普照法師様は洛陽の大福先寺で具足戒を受け、審祥法師様の紹介で道?(どうせん)法師様と会い、まず渡海して下さるようお願いしていたので御座います。そうすれば、唐の受戒僧も日本に来やすいかと思われたからでした。幸運なことに、道?法師様はこの申し出を快く承諾されてくれたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊