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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 ところで、この時興福寺で法事が行われ、亡き長良親王様と共に国政を担っていた舎人親王様が出席された時のことでした。舎人親王様は既に老年の方で、中肉中背で有りながら体格も血色も良い方です。また、親王様は先頃(養老四年)日本書紀を編纂され、秦氏と親しい太安万侶様の助言をもらい、すっかりその影響を受け、前述しました様にまことに秦氏に都合の良い内容を挿入させてしまいましたが、そのことに本人は全く気付かれてはいないのでした。これは、聖徳太子様を敬愛する親王様の心を、安万侶様が巧みに衝いたからだと思われます。よって親王様は、秦氏の方々とどちらかと言うと親しかったのでした。この法事の時、元興寺から興福寺に移られた秦氏の隆尊法師様が、機会を見て舎人親王様を捕まえ、再び誑(たぶら)かすべくこの様に訴えたのでした。
「日本国には戒律が備わっていないから、長屋親王様を悩ませた様に仏教の乱れが絶えぬのです。親王様の御力を借りて意を含ませた僧を遣唐使に随行させて遣(つか)わして、伝戒の師たるべき人を迎えて日本国で戒律を伝授出来る様にすれば宜しいのでは無いでしょうか。」
と言う隆尊法師様の言葉にすっかり納得してしまった、人の良い舎人親王様は、このことを朝廷の場で提案して採択されるのでした。そして隆尊法師様の個人的な知り合いの大安寺の普照法師様(美濃の人、秦氏の設定)や興福寺の栄叡(えいえい)法師様(百済系白猪(しろい)氏)を始めとする九人の若い僧達が選ばれ、遣唐使船に加えられることとなったのです。これは行基法師様のやっていることに対し、苦言を呈している様に見えるのですが、結局はその利となることなので御座いました。つまり唐の正式な受戒では、日本の官僧の様に土木工事に携わる事や葬儀を行う事を禁じていなかったのです。それが正式なやり方が唐の僧によって伝えられれば、誰にも文句の付け様が無くなってしまうのでした。
 また正式な受戒を行うことは、私度僧よりも官僧にとってより都合の悪いこととなるのです。何故なら、現在正式な僧である官僧達も「自称作法」と云う戒しか受けていなかったのでした。これは自己評価によって自分に戒を与えるやり方だったのです。つまり、実は正式な受戒をされていないことは私度僧と同じなのですから、唐から正式な受戒僧が来れば、私度僧も官僧も皆が平等に戒を受け直さなくてはならず、私度僧と同じ立場となってしまうのでした。このことは後でまた詳しく述べますが、こうした事が朝廷の認めぬ私度僧の地位を引き上げる結果となるので御座います。

第七章 遣唐判官
天雲の退(そ)きへの極(きわみ)我が思(も)へる君に別れむ日近くなりぬ
                       (阿倍朝臣老人の母作、万葉集所収)
この歌は、今回の遣唐使に参加した阿倍朝臣と云う方の老いた母親の歌で御座います。この歌を詠んだ時点で既に、阿倍朝臣様ご自身が御高齢でしたから、その御母堂はさぞかし高齢だったかと思われます。歌の意味は、「天の雲が遠ざかる果てまで私の可愛いあなたとお別れする日が、もう近くになりましたね。」と云った所でしょう。老いても可愛い我が子が、遠い異国へと旅立って行く悲しみや寂しさが素直に伝わってくる歌かと思われます。なお、阿倍仲麻呂様とは関係のない方ですが、まるで仲麻呂様のことを歌っているかの様に私には思われてなりません。
 さてこれは、後に下道真備(しもつみちまきび)(後の吉備真備(きびのまきび))様と仲麻呂様の従者でいらっしゃった羽栗吉麻呂から聞いたお話で御座います。私は正式に遣唐判官に任命され、天平五(西暦七三三)年四月三日、難波の津を逆に唐へと、従者の秦大麻呂と共に出航したのでした。往路は前回同様安全な航海で、驚く程すんなりと揚子江の河口の港まで八月には辿り着いたのです。そこには、蘇州刺史銭(せん)惟(い)正(せい)様と玄宗皇帝より派遣された通事舎人の韋景先(いけいせん)様と、修行を終えた玄ぼう法師様が待っておりました。その韋景先様は公式の挨拶が終わった後、個人的に私に話し掛けて参ったのです。
「お初にお目に掛かります。私が通事舎人の韋景先で御座います。あなた様が弁正様の忘れ形見、朝元(ちょうげん)(唐での読み)様に御座いますね。朝衡様に言付かって参ったのですが、弁正様、母上様、兄上様方は先年流行り病でお亡くなりになったそうに御座います。その流行病の為、都も長安から洛陽に移されました。今回はですからそちらの方にまず行って頂きます。あなた様の生家は、下道真備様によって燃やされてしまいました。もしいらっしゃりたければ、長安にお寄りになられてからにして頂きます。」
 私は、家族のことを既に秦下牛麻呂(はたしものうしまろ)様から聞いておりました。ですが、どこか実感が沸かずにいたのです。しかしこうして赤の他人から事実を聞かされると、何故か変に現実味が出てきて、自分でも意外なことに両の眼から熱いものが零れ落ちてしまったので御座いました。
「朝元(あさもと)(玄ぼうは日本風に訓読みにする。)、泣くな! 拙僧らがついてるだろ。それにお前は従五位の下、遣唐判官様なんだ。人前で泣いたりしちゃ駄目じゃないか。お父上も草葉の陰でお前さんの出世を喜んでいるさ。」
と、横にいた玄ぼう法師様が口を挟んできました。私はそれに対し、
「はい、はい。」
と言うばかりで、何か言わなければならないと思いながら、それ以上何も言えなかったので御座います。
 とにかく私達は一路洛陽を目指したかったですが、遷都のごたごたでなかなか入京が適わなかったのです。そこで私は、書物や経典を買う等して月日を過ごしていたのでした。その後、玄ぼう法師様も伴って洛陽に一行は発ち、辿り着いたのは、唐の年号で翌年の開元二十二年四月のことなのです。玄ぼう法師様も、せっかく唐に来たのだから一度位都を見てみたいと云うことで、一緒に行くことにしたのです。洛陽ではまずすっかり立派になられた阿倍仲麻呂改め朝衡様が、唐の官吏として出迎えられました。横にはこれもお懐かしい下道真備様もいらっしゃいます。こちらは、揚州から共に来た玄ぼう法師様が一緒で御座いました。
「朝元様、良くいらっしゃいましたね。玄ぼう様、お久しぶりで御座います。朝元様、下道真備様達が首を長くしてお待ちですよ。」
 すると懐かしい真備様もお辞儀をしながら、こう挨拶されたのです。
「朝元、玄ぼう、随分立派になったなあ。見違えたよ。玄ぼうと一緒に来ると思っていたんだ。」
「仲麻呂様、真備様お久しゅう御座います。仲麻呂様はこちらで偉くなられて、朝衡様と名を変えられたそうですね。お目出度う御座います。真備様もお元気で。私もこの通り元気で御座います。父や母・兄を弔って頂いたそうで、本当に有難う御座いました。」
「よお仲麻呂、偉くなっちまったなあ。真備も元気そうだ。景教を玄宗皇帝様に庇護させることに成功させたそうじゃの。まずは唐での目的達成と云った所だな。後はお主ら二人と日本国に帰るだけだ。」
 玄ぼう法師様のその言葉を聞くと、何故か朝衡様は急に顔を曇らせたので御座います。私は気になって、
「どうかしましたか? 何か気に障る事でも申しましたでしょうか?」