一縷の望(秦氏遣唐使物語)
翌日、知太政官事舎人親王様・大将軍新田部親王様、大納言多冶比真人池守様、藤原四兄弟の長男中納言藤原武智麻呂様が尋問にいらした時は、妃の吉備内親王様及び膳夫(かしわで)王(おう)様を始めとする七人のお子様は既に首を括ってお亡くなりになっておりました。親王様も虫の息と言うより確かめなかっただけで既にお亡くなりの可能性も高かったのですが、親王様からの言葉の無いまま尋問は続けられ、ただその後に自害されたと報告がされただけなのです。さらに長屋親王様と自害された御家族の遺体は、藤原四兄弟と陛下(聖武天皇)との間に話は出来ていて、すぐに詔が出され、都の外れの生駒山に葬ると云うこととしたのでした。しかし実際は葬られたのは遺品だけで、藤原四兄弟の意志でそれらの遺体は、謀反人として都を流れる泊瀬(はつせ)川の辺に密かに運ばれ、宇合様に頼まれた私が、秦氏の民の秦部の皆さんにお願いして証拠隠滅の為に荼毘に付させたのです。そして灰は川に流し、遺骨は余りに哀れなので私が集めさせ、朝廷の許可も貰って遠い土佐国の山に埋葬したのでした。余計なことかもしれませんが、その方が秦氏縁の親王様には相応しい葬り方だった様な気が致します。御本人はどう思われるかは存じませんが…。
ところが、その土佐国で次々と民達が死に、これは親王様の祟りだ、と大騒ぎになってしまったのです。仕方無く聖武天皇は遺骨を再び私に集めさせ、紀伊(きの)国(くに)に移させてたので御座いました。
その一方、宇合様の姉の長娥子様と四人のお子様達は、勿論無事だったのです。他に上毛野宿奈(かみつけのすくな)麻呂(まろ)様ら七人を共謀の罪で流罪になさり、さらに舘内の者など九十人の者が放免となった他、自決しなかった長娥子様以外のお子様の中で生き残った者も放免となったので御座います。そしてこの事件の決着のついた八月、年号が変わり、天平となったのでした。
長屋親王様のことがあってしばらくたった天平四(西暦七三二)年、外従五位下の韓国連広足は、典薬頭(厚生省の事務次官か)に登りつめられたのでした。
また別のある日、韓国連広足のこの話を、やはり参議に昇進された宇合様より伺った時、
「たぶん口封じかと思われます。」
と私(秦朝元)は、即座に答えまして御座います。
「口封じ! 一体何の?」
と宇合様は驚いてお答えになられました。
「親王様に道呪をお教えなさったのは、韓国広足様ご自身だからです。」
「それで口封じか。」
と言って、宇合様は唸られたので御座います。昇進祝いで、二人で葛野(かどの)の我が舘で酒を酌み交わしていた時のことでした。この長屋親王様暗殺事件は、その後に起こる悲劇の原因とされてしまうのですが、その悲劇に関しては、またその時が来たらじっくり語りたく存じます。
それから暫くして、宇合様はまた次の男の子達(後の雄田麻呂・蔵下麻呂(くらげまろ)・綱手)を立て続けにお作りになり、結局比較的短い生涯で八人の子をお作りになったそうに御座います。私の方と申しますと、待望の男の子が一人生まれ、今度は名を「真成」と名付けました。宇合様が、例によって我が舘に遊びに来た時、その真成の寝顔を覗き込んでおりますと、後ろから幼い牡丹と梅が近寄ってきて、宇合様の近くに座りました。
「おぉ、牡丹様と梅様か。もう大分大きくなられたの。そろそろ例の約束を果たす時か来たのかもしれん。」
と嬉しいことを仰られました。
天平三(西暦七三一)年二月には日蝕がありましたが、この国の風習でもそうですし、私の知る占星術でもそうなのですが、日蝕は最も不吉な前兆で御座います。そんな中宇合様は同年十一月、機内の副惣官(惣官と共に兵を率いて村の治安を監視する役職)に任じられ、何やら物々しい雰囲気になってきたのでした。
私は当時、また新しきお役目を仰せつかり、内裏で見込みの有りそうな者二人に、唐の国の言葉を伝授しておりました。それと同時に私は、遣唐使の一人に選ばれたことを宇合様より先程の酒席で内示されたので御座います。そして次の年、外従五位下に昇進し、い
よいよ唐に向かうこととなったのでした。
明けて正月、私が唐へ行く前に秦下の家では嶋麻呂の元服(成人式)が行われたので御座
います。嶋麻呂は父親の牛麻呂様と似ているのはそれ程高くは無い背丈位で、後は全体的
に母親の白女様似の美青年でした。この度は実質上の秦の次期頭領の成人式と云うことで、嶋麻呂が生まれた時の様な客人も集い、本人の強い希望もあって、自分の花嫁の披露も御
座いました。驚いたことに花嫁は私の従者である国栖赤檮(くずのいちい)の一人娘で、名を「紅花」と申します。何時の間にその様な仲になっていたのか、私はおろか父親の赤檮でさえ気が付いておらず、盛大に成人式を挙げることに決まった途端に打ち明けられたのでした。年齢は同い年で、既にやや子が仕込まれているということで、周囲をまた驚かしたのです。私が唐へ行く直前に慌ただしくこの様な盛大な会を催したのも、それだけ遣唐使と云う仕事が危険を伴うものだったからに御座いました。初春の宴の客人には一族の他に、嶋麻呂が生まれた時にも来ていた大衣(おおきぬ)の大隅直(おおすみあたい)様、 葛城王(後の橘諸兄)様、磐梨別乎麻呂(いわなしわけのこまろ)様も再び来てらっしゃいましたが、秦伊侶具(はたのいろぐ)様、秦都理様、太安万侶様のお三方は、既に鬼籍に入られて(死去されて)いて、その後継ぎの皆様が来られていたのです。また本日は、葛城王様は息子一人をお連れになっており、磐梨別乎麻呂様は女の子を一人連れて参りました。葛城王様の息子は、名を奈良麻呂様と申します。本日は、息子を皆に引き合わせる為に連れて来たそうです。また、磐梨別乎麻呂様の娘子は抱かれて眠っておりましたが、時折起きては静かに愛想を振りまいておりました。
「この子の名は『広虫』言うてのう。弟がまた生まれますけん、家に置いておいても邪魔じゃろうから連れて来たんじゃ。」
と磐梨別乎麻呂様は仰って、周りの関心を集めておりました。
蛇足ですが、翌年産まれた嶋麻呂の子は何と男と女の双子で、梨花が兄に「宅守」と云う名を付け、妹の方に「屋守」と名付けたのです。宮中では、双子は何かと忌み嫌われるものですが、その様なことは我ら流浪の民である秦氏には関係の無いことで、単純に一族の数が増えることを喜ぶのでした。
話は変わりますが、私度僧への弾圧は、全て長屋親王様の指示で為されていた訳でしたので、かの人が亡くなる事件があって事態は一変するのです。まず具体的には天平三(西暦七三一)年八月七日、陛下(聖武天皇)の詔に曰く、行基法師様に従う優(う)婆(ば)塞(そく)(私度僧)・優(う)婆(ば)夷(い)(出家せずに受戒をされた信者)の内、男は六一歳以上、女は五五歳以上の者は全て出家することを許し、それ以外の者は許さないが、父母・夫の喪に服し、一年以内の修行をしている者は、その例に入らない、となっていて、かなりの妥協が為されたので御座います。
また翌年(天平四年)、河内の国の狭間山下池の築造に行基法師様の協力が求められ、同僧はこれを快諾、朝廷からの誤解を解き、完全に和解されたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊