一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「親王さんの為に、同士である行基法師さん達が難儀してはる。このまま親王さんが陛下におなりになる様なことがあらはったら、わてら一族にとって大変な痛手どす。親王さんの舘に手の者を三名も忍ばせておるんは、その弱みを見つけ出す為や。今彼らにこのことを宇合さんに密告させて宮中に知らせ、合わせて基皇子(もといのみこ)さんが亡くなられたのは親王さんの呪詛によるものやと告げはったら、その命運も尽きまっしゃろ。告発するのは二名とし、彼らは避難させるんやが、残りの一人を念の為残しておきまひょ。」
と云う恐ろしい話で御座いました。私が、
「でもそこまでする必要があるので御座いますか?」
と答えますと、牛麻呂様は、
「今まででさえ、親王さんに行基さんは煮え湯を飲まされてはったんどす。それが正式な陛下になりはったら何をされるか分りません。機会は今しかおまへんのや。」
と言われました。
「そうですか、おじ上がその様に仰るなら是非もありません。私も同心致します。」
「分って下されまっか。今後はわての代わりにあんたはんが、一族を引っ張っていかねばならんのどす。この様なことも、今後もせねばならん時が来まっしゃろ。その時は御頼み申します。」
「分りました。では調子麻呂と赤檮、只今おじ上が申された通り三人に伝えて欲しい。くれぐれも我らのことは知れぬ様に気を付けてな。良いか。」
二人は、
「承知。」
と言ってかしこまって頭を一つ下げ、出て行ったので御座います。
尚ここからのお話は後日宇合様に伺ったことですが、長屋親王様が神亀六(七二九)年二月、国家転覆をたくらんで呪詛を行った、と例の漆部造君足と中富宮処連東人から宇合様を通じて朝廷への密告があったのでした。その夜、都を出る関を塞いでから、当時も式部卿であった宇合様に六衛府(宮城警護に当たる六つの役職の総称)の兵を率いさせて(聖武天皇も承知の上であることを意味する)、小雪の降りしきる中、長屋親王様の広大な舘を囲ませたのです。かつて親王様に引き立てられたこともあり、共に政治を行い、宴では歌を作り合った宇合様は、その時どの様なお気持ちであったのか、計り知れないもので御座いました。宇合様は全身挂鎧(かけよろい)で隈なく武装して舘の門に着くと、兵を四方に配置させてから大きな声で怒鳴ったのだそうです。傍らには、従者の高橋虫麻呂様もいらっしゃいました。虫麻呂様は身体は宇合様程大きくはありませんが、比較的御立派な体格でいらっしゃり、冒頓として無表情で、何を考えているのか分らない青年だったのです。
「親王様、勅命で御座る。表へ出ませい。」
すると大声に驚いた家禽の鶴が数羽飛び立ったかと思うと、中から閂を外す者がいて、扉が音も無く開いたのでした。その戸を開けた者が、この様に言ったのです。
「私は、秦一族からの命で親王様の屋敷に密かに潜んでいた出雲臣安麻呂と申します。既に君足と東人の二人は姿を眩ませました。主人は屋敷の中で御座います。どうぞ。なお大型犬の鳴き声がするかと思いますが、多数放し飼いにされていたものを全て繋いでおきましたので、ご安心下さい。」
一行が中に入る前から、成程大型犬らしい鳴き声がしましたが、安麻呂の働きのお陰で一行は少しもそれを気にせず前進することが出来たのです。すると突然、屋敷の中に入る開き戸も開け放たれたのでした。雪で辺りが静まり返っている中、扉の中から何事か大声で唱えながら、肩に巨大な茶色い狗鷲が肩に留まった長屋親王様が現れたので御座います。その声に耳を澄ましますと、
「あんたりをん。そくめつそく、ぴらりやぴらり、そくめつめい、ざんざんきめい…。」
と云う何やら呪文の様でした。その時、後方より怒鳴る声が聞こえたそうに御座います。
「危ない。遠当法に御座る。おのおの耳を手で塞ぎなされ。」
六衛府の兵達は何事かと後ろを振り向いたそうですが、宇合様と高橋様だけは即座に指で両耳を塞いでその場にしゃがみこんだそうです。その声が聞こえるや否や、長屋親王様は両手で大きく柏手をお打ちになりました。その途端、肩にいた鷲が兵達の方へ飛んで来たのです。そして耳を塞がなかった者は皆、その場に卒倒して倒れたそうなのでした。その中を、ずかずかと二人の男が入って参ります。その内一人は黒い布で目から下を隠した者で、もう一人は武人風の若者でした。その若者は、唯一立っている二人に襲い掛かってきた大きな鳥を、まず蕨手刀(わらびでとう)(陸奥の太い太刀)で一刀両断にしてしまったのです。すると顔を隠した者は親王様の近くまで行き、布から出ている目で親王様とにらみ合ったので御座いました。長屋親王様はその正体に気付いたらしく、端正なお顔を引き攣らせて両の眼を吊り上げなさって、
「貴様ら!」
とゆっくり呻く様に仰られたのです。その途端で御座いました。耳を塞いで難を逃れた宇合様が、注意を逸らされた親王様の隙をつき、やおら立ちあがって親王様の鳩尾(みぞおち)に渾身の当て身をされたのです。親王様は少しうなりなされましたが、そのまま気絶なさいました。
「御助成忝い。ところでどなたで御座ったかな。それから虫麻呂、お前も無事なら、親王様を拘束しておいてくれ。」
と宇合様が仰るので、虫麻呂様は、
「はっ。」
と一言言って、親王様の腕を取って縛りあげようとしたのです。宇合様は夜で良く相手の顔や格好が見えないので、返事を待つ間のほんのわずかの時間、気絶していた筈の親王様がかっと両目をお開けになり、自らに降り積もる雪にもめげず素早く虫麻呂様を振りほどいて太刀を抜き、近くにいた宇合様を両断しようと刀を振りかざしたのです。宇合様はそれに対する反応が一瞬遅れて、あわやと思った瞬間、声を挙げた男に付いていた従者が、無言で近づいて太刀で薙ぎ、親王様の腹を割いてしまったのでした。親王様は物も言わずにその場に崩れ去ったので御座います。親王様が倒れると、地面に降り積もった白い雪に、その真っ赤な血が流れ出しのでした。間近にその者を見た宇合様は、「兵衛府の者だな。名は何と言う。」
と仰り、相手の若い男は、
「はっ、丸子嶋足(まるこのしまたり)さ申すっす。無礼の段、でらっと(全て)許してけれ。」
とお答えになりました。横にいた主人らしい男は、顔の覆面を上げて降りしきる雪を手で払いながら、
「申し遅れましたが、私は呪禁博士の韓国連広足と申す者で御座います。この兵衛府の嶋足はちょっとした知り合いでしてな。陸奥の者です。たまたまこの場に居合わせて異変に気付き、私を助けてくれたのでしょう。」
と白々しいことを付け加えたそうです。宇合様はこれに対し、こうお答えになったそうに御座います。
「いや、こちらこそ危ない所をお助けして頂き、忝のう御座ります。親王様の傷は深く助かりそうに御座いませんが、どちらにしろ死を賜る筈でしたので、かえって良かったかもしれませぬ。もちろん、この件は内密に致します。しかし嶋足と申す者は、まだ若いのに大した腕で御座るな。」
「恐れ入るっす。」
と、若い嶋足は答えながら恐縮していたそうでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊