一縷の望(秦氏遣唐使物語)
そもそも広足がこの乱を画策されたのは、時の最高権力者である藤原不比等様が不治の病に倒れられたのを確認したからでもありました。隼人の反乱が起こった年の八月、当時常陸守であった宇合様の父上でもある右大臣(藤原不比等)様が御病気で亡くなられたのでした。なお亡くなられた不比等様の莫大な財産は、この時代の常で女性へと受け継がれるのですが、直系の娘と言えば、まず長女の宮子皇太夫人(こうたいぶにん)様は引き籠っていらっしゃって問題外として、次に次女の長娥子様は時の権力者長屋親王様の舘に行かれてしまっていて、結局三女の光明夫人(ぶにん)(かつての安宿媛(あすかべひめ))様が全て相続・管理することとなられるのでした。そして右大臣であった不比等様の後任にあの長屋親王様がなられ、不比等様の子の四兄弟も抑えられて親王様による独裁体制となったので御座います。
同年九月、今度は日本の反対側の蝦夷が反乱し、同じ按擦使の上毛(かみつけ)野(の)広人(ひろひと)様が殺害されるという事件が陸奥国で起こったので御座います。蝦夷とは、元々西日本にいた土蜘蛛と呼ばれたまつろはぬ民で、千年前日本に渡って来た当時の秦の方子方士(鬼道と呼ばれた大陸の妖術師)徐福様の子孫と縄文の民とで成り立っておりました。この徐福様こそ、我ら秦氏の先遣隊であったのです。隼人や大和朝廷に服した佐伯氏や土蜘蛛の内国栖(くず)の民を除いた、尚も朝廷に服さず東へ逃げた者達と、百五十年程前の戦(いくさ)で都落ちした物部の者達だったのです。物部も徐福様の子孫でしたから、ここで同族の秦氏と袂を分かち、骨肉の争いとなってしまったのでした。さらに蝦夷は大陸や半島からの難民を抱え、陸奥に追い落とされたとは云え、侮れぬ勢力を保持していたのです。
実はこの前述した蝦夷の反乱は、蝦夷の一大勢力物部を操る広足がいささか時期は遅くなってしまいましたが、二月に起こした隼人の乱と連動して起こしたものだったのでした。この反乱を平定する為に朝廷は今度は多(た)冶(じ)比県(ひあがた)守(もり)様(宇合が副使の時の遣唐押使)を持節征夷将軍に任命し、反乱は翌年にはもう鎮圧されたのでした。しかしこの事態を憂慮した朝廷は、不比等様の死による長屋親王様の右大臣就任も重なったこともあり、宇合様を正四位上に昇進させ、さらに翌年には、兄上である藤原武智麻呂様に代わって宇合様を式部卿に就任させたので御座います。時も時、神亀元(西暦七二四)年、再び蝦夷の反乱が起こり、陸奥国大掾(地方行政官の中で低目の地位)佐伯児屋麻呂様が殺害されたのです。
朝廷は先の反乱に対し四月、持節大将に藤原宇合様、鎮守将軍(常駐東北現地軍最高司令官)に大野東人(あずまんど)様、副将軍に高橋安麿様を任命し、鎮圧に当たらせたのでした。もちろん、高橋虫麻呂様を従者として連れていかれたのです。その宇合様の眼の覚める様な戦振りを目の当たりにしたことと存じます。この反乱を十一月までには速やかに鎮圧された宇合様は、翌年その功により従三位勲二等となられ、さらにその翌年に、内裏に玉棗(瑞祥を意味する棗)が生じたとして、全ての民に詩賦(唐語の詩。書けるのは知識階級に限られた)を作る様に勅令が下ったことが御座いました。宇合様は華麗な「棗賦」を作り、文武両道である所を見せられ、その十月、知造難波宮事(難波宮造営の長官)に任ぜられたので御座います。そして新しき陛下(聖武天皇)の命で、難波宮に瓦葺の離宮を造営したのでした。ここは我ら秦氏の本拠地の一つでもありますから、秦一族で宇合様を援助して差し上げたのは当然のことで御座います。
ところで、宇合様の父上である右大臣であった藤原不比等様が身罷った後、天皇の代が
お変わりになっても、長屋親王様と日本書紀を編纂された舎人親王様が政事の中心であったので御座います。もっともお二人の政治は亡き不比等様のものと同質で、お二人の政治手法の間にあまり差は見られず、藤原家に対する対立の構図も見られなかったのですが、残された四人の御子様の内、もっとも長屋親王様に近い存在でいらっしゃった筈の次男の房前様が、どうも疑心暗鬼にかられてしまったのではないかと思われるのです。血筋的に見ても、長屋親王様のお妃の一人は亡き不比等様の次女長娥子様でいらっしゃいました。藤原家が長屋親王様を頼りこそすれ、陥れること等考えにも及ばぬことだったのです。最終的なきっかけは、陛下(聖武天皇)と光明夫人様との間の基(もとい)皇子(のみこ)様の死であったと思われます。何故なら、基皇子様が幼子であったにも関わらず皇太子に定めなさったのに儚くなってしまわれ、皇位継承権は長屋親王様へと移られてしまったからなのでした。また、儒教思想を元とする長屋親王様の真面目な政治理念が、藤原にとってそぐわないものと思われたからかもしれません。例えば、青衣(しょうえ)の宮子皇太夫人様の呼称を「大夫人(たいふじん)」とする等と云う陛下の勅は、律令違反だとして長屋親王様が改めさせたり等と色々とありましたが、決定的なことは、後にご紹介する藤原不比等様の娘である光明夫人様の立后に、かの親王様が反対したことでしょう。確かに、臣下の娘である光明夫人様が立后するなど前代未聞のことで、真面目な親王様には許し難いことだったのでしょうが、不比等様を失い、勢力を弱めていたその子の四兄弟にとっては、光明夫人様の立后は急務だったので御座います。
一方私は、秦下牛麻呂様が用意してくれた葛野(かどの)の舘(父弁正が日本に居た頃住んでいた所を片づけたもので元々秦河勝が住んでいた)に梨花と二人で住み、宮仕えの合間に一族の医師となっておりました。ところが噂の出所は恐らく宇合様と思われますが、その治療が適切だということで評判となり、それが宮中にまで広まって、密かに診察を受けに来る殿上人まで現れてしまう始末なのでした。これでは宮中の医師の役割をする典薬寮や呪禁(じゅごん)寮の方々の面子が無くなってしまいますし、かと言って典薬寮に正式に任命してしまっては、後で通事(通訳)として使えなくなってしまいますので、苦渋の選択で、通訳のお役目が必要になるまで大学寮に臨時講師として出向すると云うこととしたのです。私邸での医薬行為は出来なくなってしまいましたが、典薬寮の皆様も、大学寮に聴講に来て唐の進んだ医学の知識が得られ、自分達の面子も守られたものとして安堵していたご様子でした。そしてその年、私の医術が優れていると云うことで賞与を賜りまして御座います。
ところでただ一つ気掛かりのなのは、呪禁寮の呪禁博士・呪禁士・呪禁生の方々だけが私の元へ学びに来なかったことです。呪禁博士は例の韓国連広足様でしたので、私は何やら身の危険を感じ、個人的に秦人(はたびと)(秦氏の民)の中で腕の立つ者を牛麻呂様に二人紹介して頂き、身辺警護に雇いいれることとしました。私が舘にいる時は、もちろん門番も務めてもらうのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊