一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「しかし韓国連広足が、今夜のことを全部仕組んだのでしょうか? どうも私には親王様が命じた様に思えてならないのですが。」
「そうじゃの。長屋親王様がの。」
と行基法師様が仰ると、一同は何も言えなかったそうに御座います。
壁の上の御河童頭の臥行者様、剃髪の浄定行者様は、何やら話し合っておりました。
「少し腑に落ちぬな。」
と本来無口な臥行者様が呟くと、猿面を脱ぎ捨てて浄定行者様がお聞きになりました。
「何がで御座います?」
「されば、この前我らを襲って逃げた時は、自らの足を使っていた。ところが今の遁走法は、それとは違って煙の様に立ち消えてしまった。何故前はあの技を使わなかったのだろう。第一、本来あれは百済の呪禁道では無く、我ら新羅の山岳修行者の術のはず。」
「ではどうして。」
「何かの方法で、本場の唐より文献を取り寄せたのだろう。」
「では侮れませんな。」
「うむ、不意を突く積もりの相手から、逆に不意を付いて今度も勝利出来たが、これからはこううまくは行くまい。」
「そうで御座いますね。今のことを法澄様にご報告致しておきましょう。」
「そうだな。」
と言って、臥行者様は腕を組んで考え込まれてしまわれたそうに御座います。
「ところで臥行者様。」
「ん。何だ。」
「基本的なことで大変聞き辛いのですが…。」
「だから、何だ。」
「あのう、韓国連広足は、どうして我らや行基様を亡き者としようと何度も襲ってくるのですか?余りに執拗過ぎて、我らが新羅者で奴が百済者だと云う以外に何かあるとしか思えませぬ。」
「お主、そんなことも知らずに命懸けで闘っていたのか?」
「はあ、誰か教えてくれるのかなあ、と思っている内に月日が経ってしまいまして…。」
「ふむ。つまりだなあ、そもそも韓国連広足が、我らの第一の試みであった役の行者様を、密告によって破滅させてしまったことは知ってるな。」
「はあ、それはまあ。」
「奴はそもそも朝廷の呪禁(じゅごん)師だろう。呪禁師の役割とは何だ。」
「えぇ、呪詛返しをしたり、病魔調伏をしたり…。」
「そうだ。だが我ら修験者や行基様の様な私度僧がやっていることは、それと同じことだとは思わんか?」
「はあ、そう言えば。」
「そうだ。我らが呪禁師のやることが出来るなら、そもそも呪禁寮自体の存在価値が無くなろう。」
「あっそう云うことか。」
「奴らにとっては死活問題よ。この上我らの息のかかった陰陽師や僧達が、より強力な術の知識を持って唐から戻ってみろ、呪禁寮のお役目は陰陽寮で兼ねてしまいかねん。」
「あっ。」
「そうだ、そうすれば呪禁寮の奴らは皆お払い箱だ。」
「そうかあ、そう言う意味があったのか。」
と浄定行者様は、今さらながら感心したそうです。
行基法師様と法澄様のお二人はその後、来世でも会おうと誓いあって白山で別れられたのでした。そして養老元年のお触れがあった後も、行基法師様の社会福祉工事は変わらず続けられたのです。しかし、行基教団に対するお咎めは何も無かったので御座いました。ところが養老六(西暦七二二)年、昨年の元明天皇崩御を契機にして、行基法師様達の活動を弾圧することが公に許可されたので御座います。その為、役人が派遣されて取り締まりに当たり、僧尼、庶民及び官人の信者まで処罰の対象になったのです。処罰の内容は、軽いものは百日の強制労働で、それが度重なる場合、都の外へ追放となるのでした。行基様も、この時期はさすがに活動拠点を大和へとお移しになられたので御座います。
この年には、この弾圧よりも先に、我らの長である義淵僧正様が亡くなられ、その後を行基法師様が継ぐよう義淵僧正様から直接頼まれ、行基法師様も、藤原宮子夫人の後見の引き継ぎともども快諾されたので御座いました。
第六章 宇合
千万(ちよろず)の軍(いくさ)なりとも言挙(ことあ)げせず取りて来(き)ぬべき男(をのこ)とぞ思ふ(高橋虫麻呂作 万葉集所収)
この歌は、藤原宇合様の家人であった高橋虫麻呂様が、戦に旅立つ宇合様の為に詠んだものに御座います。意味は、「たとえ千万の敵軍であろうとも、あれこれ言わずに、きっと敵を平らげてくる男だろうと思う。」ということで、まことに宇合様のその後の活躍を端的に示すものと思われます。宇合様は、変名の効果があったのかどうかは分かりませんが、日本に戻ってからの活躍は目を見張るものが御座いました。まず、帰ってすぐに高橋阿彌娘様と言う二人目の妻を作り、男子(清成)を一人儲けたのです。また続けて別の新しい妻に、同じ頃別の男の子(田麻呂)も産ませたそうです。因みに私と梨花との間にも女の双子が生まれ、例の約束がいよいよ実現する勢いとなりました。名は二人で相談して「牡丹」と「梅」と名付けたのです。さらに宇合様は常陸の国守に任官され、冒頭の歌を詠まれた高橋虫麻呂様もこの時部下とされたのでした。そしてその関係で、「常陸国風土記」の編述にも関与されたのです。それからこの年初めて按擦使(あぜち)(数カ国の国司の代表)の制度が制定され、宇合様も安房、上総、下総の按擦使となられたのでした。
さて養老四(西暦七二〇)年二月九日、かつて大衣の大隅直様が仰っていた様に西海道(九州)の隼人による大隅国守の殺害事件があったので御座います。実はこれは韓国連広足が地元近くの隼人達を唆(そそのか)したものだったのです。これは、広足が隼人達を唆して朝廷に背かせることによって、日本を渡来系の天下にしようと云う企みの一環なのでした。袂を分かった広足と云えども、悲しいことに心はまだ秦の志を持って、やり方は違いますが、我ら秦氏の目指す所と同じもの求めていたと言えるのかもしれません。この事件を切っ掛けに起こった隼人の反乱に対して四日後に老齢の大伴旅人様が持節将軍に任命され、兵一万を率いて討伐に向かわれたのでした。六月にかの方からもたらされた戦況報告は、
「最初こそ連戦連勝だったのですが、だんだんと夏になるにつれて暑いのが堪えるので、どうか苦労を察して頂きとう御座います。」
と云う情けないものでした。時の陛下(元正女帝)はこれに対し、副将軍を残して大伴旅人様だけ撤退させ、後のことは副将軍に任せる、と云う勅をお出しになられたのです。反乱は長期戦の様相を呈し、ようやく翌年の七月平定し、隼人の斬首、捕虜合わせて千四百余人と云う結果に終わったのでした。この時、我らの一族である豊前守宇努首男人(うぬおびとおひと)様が広足の誘いに乗らず、朝廷に味方して八幡神の名の下に大活躍したそうに御座います。結局、最初に国守を殺害した者が誰かは分らなかったのですが、これが実は韓国連広足と通じていた若き曾乃君多理志佐(そおのきみたりしさ)様なのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊