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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 それからわずか三年後、同じ様に景教を薦められた朝衡様が左拾遺に昇進され、任地も長安へと戻り、玄宗皇帝の側近く仕えることとなったので御座います。実は陛下は、この機会をずっと狙っておられたのです。陛下は初めて謁見されたあの年賀の祭典以来、美貌の青年である朝衡様に密かに目をつけられておりました。実は陛下はご婦人もお好きでしたが、美青年もお好きだったのです。左拾遺に昇進されて長安へ戻り、陛下に御挨拶に伺った折、高力士様等のごく内輪で祝いの酒宴が開かれたのでした。その席で慣れぬ酒をひどく飲まされた朝衡様は、前後不覚に陥ってしまい、その夜違法ながら後宮に泊り、一晩を過ごすこととなってしまったのです。その夜、高力士様の手引きで、酔い潰れていらっしゃる朝衡様は、陛下に何と手篭めされてしまったのでした。男はおろか女との交渉さえ経験の無かった朝衡様は、ひどい衝撃に悩まされましたが、「金烏玉兎集」を見付けると云う使命を思い出し、ご自分の気持ちは押さえつけてこの立場を逆に利用してやろうと健気にも決意されたのです。何とか立場を利用して宝物庫の鍵を手に入れ、陛下に伽をした夜、行為の後に密かに宝物庫を探していました所、呆気なく高力士様達に捕まってしまい、縛られて陛下の前に突き出されてしまったのでした。引き出された朝衡様の顔を見ながら、半ば呆れ顔で陛下はこう仰ったので御座います。
「朝衡、朕の寵愛を利用してこの様な仕儀に及ぶとは、未だに信じられぬ。そちが世俗の宝物等に興味があるとは思えぬのだが、一体何を探しておったのじゃ。」
 朝衡様は後ろ手に縛られて座らされたまま、こう答えられたのです。
「恐れながら申し上げます。私が探し求めていたのは、日本の陛下より密かに頼まれた『金烏玉兎集』で御座います。」
 陛下はそれを聞いて、気の毒そうな顔をなさいました。
「朕もその様な物があると云う噂を聞き、そこにいる高力士を中心にして宝物庫はおろか、宮中を隈なく探させたことがあるが、その様な物をついに見つからなんだ。まったくの無駄骨であったの。そんなもの、朕に一言言ってさえくれれば、見付けさえすればくれてやったものを。しかし、こうして事が公けになってしまっては、朕とて見逃すことは出来なくなってしまった。それでせめてもの情けにそち自身に選ばせてやろうぞ。死罪か、宮刑
(去勢の刑)か、罰金刑じゃが、罰金刑はそちに払える金額では無い。死罪か、宮刑となるが、どちらにする?」
 かの方は、とにかく使命を果たすまでは死ねないとお思いになり、こう答えたのです。。
「き、宮刑を。」
 刑はすみやかに執行され、身体の具合が良くなると、陛下の計らいで今まで通り宮中に務めることが出来ました。そしてかの方は、今まで以上に務めに励んだのです。その様子が高力士様から報告され、哀れに思った陛下が四年後、罪人であるかの方を左補?(さほけつ)に任じ、位階は従七品上としてくれたのです。
 その二年後の日本の年号で天平四(西暦七三二)年、唐の年号で開元二二年正月、突如として洛陽への遷都の詔が出されたので御座います。その原因は、元は断たれたとは言え、あの祈祷前に流行した病による死者の増加なのでした。その数ヶ月前に朝衡様は陛下に呼びつけられ、
「朕は遷都の詔を出し、洛陽へと移るが、遣唐使がもうすぐやってくる。そちをその出迎えの使者に任命するから、例年とは違って、長安では無く洛陽に朝貢しに来る様に必ず伝えるのだ。今回の使節にはあの弁正の次男もいるらしい。朕はその者に是非とも会いたいのだ。そちはその者を密かに朕の元に連れてくるのだ。分かったな。」
と命じられたので御座います。その翌年、十三年振りに日本からの遣唐使節団が唐に参ったのでした。

第五章 私度僧
 白(しら)珠(たま)は人に知らえず知らずともよし知らずとも我し知れらば知らずともよし
                       (元興寺の僧作 万葉集所収)
これは、第二章で九人の同志達が集結した元興寺のとある僧の作品に御座います。意味は「真珠は人にその存在を知られなくともその価値は変わらない。例え人に知られなくとも、自分自身が知っているなら、有名にならなくても良いのだ。」位のものでしょう。
 この元興寺に集結した僧の一人である行基法師様は慶雲二(七〇五)年三八歳の時、大坂(今の大阪府)の堺に大修恵院をお作りになられてから民衆の為に具体的な行動を起こさ
れたのです。この建物は、日夜ここで働く老若男女の憩いと治療の場そして無縁仏の弔いの場(これが、本来なら葬式と無縁なはずの仏教が、現在の葬式の元となる起源である)として建てられたのです。行基法師様が土木工事をなさり始めたのも恐らく、師である道
昭法師様が土木工事をなされていたからと思われます。因みに道昭法師様が新羅で講義さ
れている時に、それを聞く者の中に役行者様も居たそうに御座います。この辺に、修験道
の祖である役行者様と行基法師様との繋がりを見ることが出来るでしょう。とにかく大商
人の寺史乙麿(てらのふひとおとまろ)様(秦氏・彼は従来の神道式の葬式を担っていた土師氏でもある。彼が寺と云う苗字で有ることからも分る様に、彼らを通じて葬式は神道から仏教へと受け継がれる)の援助もあり、これ以降四九の院をお建てになられました。また、平城京の造営の時も周りに幾つかの院を役(えの)民(たみ)と呼ばれる土木作業員に建てさせ、現場からの逃亡者や流民を収容したそうに御座います。この役民こそ、役行者様の御出身の役氏の率いる者達なのでした。彼らはかつて大規模な古墳を造営していましたが、大化二(六四六)年の薄葬令によってそれが廃止され、大量解雇されて仕舞っていたのです。耕す土地も無い彼等は貧困に喘いでいましたが、行基様が橋や灌漑事業を行い、救われるのでした。しかしそうした土木工事や下民(したたみ)(被差別民)と関わる事は官僧の戒律に触れるものだったので、それを行う為に行基法師様は安定した収入の得られる官僧を辞められ、私度僧と為られるの御座います。そこまでしてかの僧が救済を行わねばならなかったのは、その仏教におきましては、この様な行為もまた菩薩行の一つなのだからなので御座いました。
 またこうした役民の多くは貧しい渡来民で、先に述べました法澄様の越後から来た者が多かったのです。行基様と法澄様は、この様な繋がりもあったので御座いました。
 さらに行基様の建てられた寺などは、我ら秦氏の者の武道や行者による修験道の道場としても利用されたのです。よって、我ら秦氏も、積極的にその建設を援助したのでした。元々我らは神社においては神人(じにん)となり、寺においては衆(しゅ)徒(と)(僧兵)となったのですから、この様な道場の存在は誠に必要なものだったのです。
 行基法師様はこの様な行いの結果、広く世間から尊敬を集めておりました。文殊は貧者の守護者である、と文殊般若経に書かれているので、こうしたかの僧の菩薩行の結果、かの僧は釈迦菩薩の弟子の文殊菩薩の生れ変りだ、と信じられる様になられたのです。