一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「これは私の国日本の遠縁の者が送ってきたかの国の歴史書『古事記(ふることぶみ)』と『日本書紀』で御座います。『古事記』には我が一族がかの国の神々と深く結びついていることが示されています。また『日本書紀』では、かの国の聖人厩戸皇子、成人してからの名聖徳太子様の伝記として、「序聴迷詩所経(聖書)」の彌施訶(メシア)(イエス)の誕生説話にちなんで『厩』と名乗られ、また彌施訶伝の一部の白臘患者(ラザロのこと)復活の説話が唐突に挟み込まれているので御座います。また、希臘(ギリシア)に関わった者ならば誰もが分ることなのですが、二つの歴史書に共通する伝説として、軋犖山(アレクサンダー)東征伝説に出てくる神鳥八咫烏の話も入れることに成功しました。」
「おぉ」
三人を囲んでいた大秦寺の他の僧達からも、大きな歓声が上がりました。父は続けて、
「ですから皆様、今は迫害の時では御座いますが、遠い東方の地で我らが頑張っていることを励みにして下さい。」
と言いますと、羅含法師は国際都市長安でも珍しい異相で、背が私と同じ位高く、髪の色が薄く、肌の色が白く、眼は青く、鼻は鷲の様でいらっしゃいましたが、その蜻蛉(とんぼ)玉(だま)の様に透明な両の眼からポロポロと大粒の涙を零(こぼ)され、両手を広げて私を抱きしめられました。そして景教独特の仕草で十字を切られると、
「この者に神の加護が有ります様に。主の御心のまま(アーメン)。」
と読経を唱えられ、
「本当に良く来てくれた。良く来てくれた。」
と、簡単な唐の言葉で喜びを表されたので御座います。
父は、せめて一晩泊って行けば、と誘われたので御座いますが、真備様のことも気になりましたので、それで帰らせて頂くことと致しました。
その後、科挙の勉強をする太学への入学許可が出て、阿倍仲麻呂様は住まいをそちらへ移したのですが、仲麻呂様はすっかり私達家族と打ち解け、まるで本当の家族の様に楽しく過ごしておりましたので、仲麻呂様が引っ越す日には、一家でその別れを惜しんだので御座います。
さてそれから七年後、日本の年号で神亀元(西暦七二四)年、唐の年号で開元十四年、私
はこの時既にここ(唐)におらず日本でしたが、父弁正や下道真備様や羽栗吉麻呂様に聞いた話によりますと、阿倍仲麻呂様が科挙に合格され、晴れて左春坊司経局校書に任官され、位階は正九品下となられたそうなのです。何しろ科挙と言えば、合格率が一割台と云う難関で、しかも受かるのは試験官を買収出来る程の金持ちの子弟だけと思っていたのですが、ただでさえ母国語が使えずに不利な仲麻呂様が、二十歳そこそこで等第してしまわれるとは信じられぬことでした。また、阿倍仲麻呂様が七年の時を懸けてまで科挙に合格し、唐の宮中に潜入しなければならなかったのは、前述しました様に陛下(元正天皇)からの密命も有って宮廷の宝物庫の奥深く隠してあると言う「金烏玉兎集」を手に入れる為なのでした。「金烏玉兎集」とは、陰陽道の奥義を綴った書物のことです。また仲麻呂様の進士合格を喜んだ皇帝陛下は、仲麻呂様に唐風の姓名を賜ったのでした。その名は、阿倍仲麻呂改め「朝衡」と云うそうで御座います。
実はこの時、朝衡様の従者であった羽栗吉麻呂には密かに囲っている胡人の娘がおり、その夫婦の子供も翼と翔と云う男の子が二人もいたのです。ところが、朝衡様の任地が洛陽になりましたので、この為にことが発覚してしまったので御座いました。日本国の者がこちら(唐)に来て妻子を持てば、親子揃っての帰国は難しくなります。まだ先のこととは言え、頭の痛い問題なのでした。
ところで、唐に初めて来た時の元宵観燈の宴の時、朝衡様を見詰めていた女官は、朝衡様が長安から洛陽へまだお移りにならない時、また熱い視線を投げかけ始めたのです。当初は複数の女官が熱い視線を朝衡様に送っていたので気が付きませんでしたが、たまに出会う時だけでも印象的な気を放つ視線にさすがの朝衡様もお気付きになったのでした。ある時その視線の主の女官を他の誰もいない時に手を取って捕まえ、
「名は、名は何と言うのですか?」
と問われると、その女官は、
「藻(みさお)と申します。お許しを。」
とだけ答えて、手を振りほどいてお逃げになってしまわれたのです。真備様は、元宵観燈(がんしょうかんとう)の宴でのことを朝衡様に伝えていませんでしたから、朝衡様はその様にお聞きになったのですが、もしも真備様ご自身がかの女官を再びご覧になってらしたら、その女官がまるで時と関係なく変わらないことに驚いたことでしょう。朝衡様は藻という名の女官について御調べになってみましたが、その様な女官はいないということで御座いました。宮中に関係の無い女が、堂々と入りこんでいること等有りえぬことなのですが、その時の朝衡様は偽名を使われたのかと思い、それ以上詮索なさろうとはしなかったので御座います。
さて暑い夏の或る日、今度は深刻な問題が発生しました。父弁正一家が流行病(はやりやまい)(天然痘)に罹り、一緒に住んでいた真備様が急いで病を防ぐ札を貼ったのですが、時既に遅く、真備様を除く全員が病に倒れてしまったのです。こうしてここに綴るのも辛う御座いますが、つまり私の父である弁正と私の母でもあるその妻、私の兄である朝慶、そして家の使用人の全てが病に罹り、真備様を除く全員が亡くなってしまったのでした。真備様は私の家の最後の一人が息絶えると、葬式も開かず、真備様ご自身が用意した祭壇と全員の遺体と共に、風の無い日を選んで郊外の大きな舘に火を付け、全てを燃え尽くしたので御座います。真備様は、父弁正が病気に罹られた時点で仔細を文(ふみ)にて朝衡様に伝えたのですが、朝衡様が我が家に着いた時には、既に全てが灰になった後の事で御座いました。焼け跡に真備様と二人で立ち尽くすと、朝衡様は涙を止めどなく流されて慟哭されたそうに御座います。
「何故だ。何故この様なことに。」
全ての後始末を終えられたばかりの真備様は、取り乱す友を静かに見つめながらこう仰いました。
「どうもこの病はおかしい。まるでこの一家を狙い打ちした様だ。話はこれで終わらないかもしれぬ。くそ、普段はうっとおしいが、こんな時玄ぼうがいれば…。」
その時だったそうです。真備様と朝衡様の背中にぞっとする様な気配が感じられ、お二人同時に後ろを振り向いたので御座います。そして誰もいない事に気付くと、お二人は顔を見合わせたのでした。
「何か、感じたのか?」
と真備様の方から口火を切られると、朝衡様はそれに答えて、
「いえ、この気配は確か前にも感じたことがあったかと…。」
と口を濁らせたので御座いました。真備様は続けて、
「その前の気配とは、藻(みさお)とか申す日本人の女官の視線のことではないか?」
とお聞きになりました。朝衡様は驚いて、
「な、何故藻のことをご存知なのですか?」
「いや、我らが初めてこの唐に来た時の元宵観燈の宴の席で、私も同じ様な気配を感じてその主を探したら、あの娘だと分ったのだ。私らの同士の司馬承禎(しょうてい)様に密かにその者の素性を訪ねたのだが、藻と言う女官であることしか分らなかった。今の今までその事は忘れておった。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊