一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「倭よりの留学生諸君。もそっと朕の近くに寄って、顔を良く見せてくれ。文官達の間で、そちらが大変な美形と評判なのじゃ。どれ、評判の顔を良く見せてくれ。近こう、近こう。」
「ははぁ」
と一同は答え、顔を伏せたまま静々と陛下に少し近づいたそうです。
「もっと、もっと近う。」
と陛下が仰ったので、一同はさらに近づき、一つお辞儀を致しました。
「苦しゅうない。一同面を上げい。」
と皇帝陛下が仰ったので、一同顔を上げると、
「なるほど噂に違わぬ美形揃い。いや眼福じゃ。特に一番年の若いの、名を何と申す。」
と皇帝陛下が仰るので、阿倍仲麻呂様は恐る恐る、
「阿倍仲麻呂に御座います。」
と自分の名を申し上げました。すると陛下は、
「仲麻呂とやら、その美しさに勝るもの無しじゃな。」
と、留学生一同の顔を見ながら仰いました。これまで余り気にしないので書きませんでしたが、男の私の眼から見ても、留学生の皆様はいずれも美形ぞろい。仲麻呂様はどちらかと言うと知的で冷たい感じのする秀才型の美形で、真備様は優しげな風貌、そしてその他井(いの)真(ま)成(なり)様と云う方は童眼で可愛らしくていらっしゃいました。玄ぼう法師様はこの場におられませんでしたが、その野性的な美貌にやはり賞賛の声を受けただろう、と思われます。
「恐れ入ります。」
と仲麻呂様が返答なさいますと、皇帝陛下はさら続けて、
「そう言えば、囲碁の出来る者もおるそうじゃの。」
と、こう仰られるので父弁正が、
「はい、それは下道真備と云う者で御座います。」
とお答えになり、先頭の下道真備様の方を見やりました。自分で言えなかった真備様が、恐縮して深くお辞儀をなされたそうです。
「おうそうじゃ。真備じゃ。倭の言葉とは読みが難しいのう。よし、この行事が済んだら一局囲もう。決して帰るでないぞ。仲麻呂もじゃ。そちは倭人の癖に漢詩を詠むそうじゃの。後でそれも聞きたい、良いな。」
「ははぁ」
一同は一礼してその場を下がりました。
後刻の宴の席は「梨園」と云う庭園で行われました。屋根付きの宴席とは云うものの、正月は春と言えどもまだ夜は寒く、花もまだ何も咲いておりません。皇帝陛下と真備様との囲碁の対局が早速行われ、その対局が済むまでに仲麻呂様が唐詩を作る遊びを致したそうです。対局は接戦でしたが、機嫌を損ねること無く陛下が何とかお勝ちになりました。その間に作った「梨園」と言う題の仲麻呂様の詩も、周囲の家臣達に絶賛されたのでした。しかし真備様は先程の賀正の式から、背後に視線を感じて困っていたそうです。それはどうやら自分ではなく、常に傍にいた仲麻呂様に向けられたある女官からのものでした。美形の仲麻呂様には正直珍しいことでも無いのですが、この視線の気配はいつもとは違う様な気がして仕方が無かったのです。やっと視線の主を特定出来ると、背はやや低いのですが、成程顔が小さく目も全体の容姿もほっそりとしていて美しい女官ではありましたが、いつもとは違う気配の正体はどうしても掴むことが出来ませんでした。そこで、宮中のことに詳しい道士の司馬承禎様と高弟の呉?様に、機会を見つけて聞いてみたのです。司馬承禎様は長い髭を蓄えられ、お年齢(とし)の割には矍鑠(かくしゃく)とした偉丈夫で御座いました。
「あれは確か藻(みくず)と言う名の倭人の娘で、前からここに務めておりますが、特にこれと云ったこともありません。お気になるなら、私が調べておきましょう。」
とお答えになりました。後に、この藻と司馬承禎様が仲間であったと分かり、さすがの真備様もこの時にそこまでお気付きにはなられなかったそうで御座います。
宴はまだまだ続きましたが、留学生一同は途中でお抜けになり、それぞれの役目へとお戻りになられました。
翌日から留学生の面々は、一時をも惜しんで勉学に励みました。父弁正の囲碁の教え方もうまく、真備様は信じられぬ程上達され、私が帰朝した一年後の十一月には、私と肩を並べる程の腕となっておられました。
しかし、父弁正には他にも大事な用が有りましたので、真備様の碁の指導は兄朝慶に任せ、同じ長安にある大秦寺へと参ったので御座います。私が後に、日本へ渡った時に携えていた文(ふみ)の内容は、主にこの時のことを記した物でした。大秦寺は景教(ネストリウス派キリスト教)のお寺で、時の皇帝玄宗から庇護を受ける直前のことで、大変荒廃しておりました。父は大秦寺へ行き、羅含(アブラハム)法師様に日本からの書物を渡しに行ったのです。大秦寺の羅含法師様は、大秦国(ローマ)からわざわざ布教の為にいらっしゃったのでした。寺の敷地の入り口の門まで行くと、扉の中から胡人の青年が現れました。
「何の御用ですか?」
と背が高く丸々と太って白い肌をした赤毛の青年は、にこにこしながら用件を尋ねて参りました。
「私は弁正と申す者です。羅含法師様に渡す物があって参りました。お取次を願います。」
と父が答えますと、青年は何も疑わず、
「左様ですか、どうぞ中へ。」
と答え、寺の敷地、さらに建物の中へと導きました。父は余りに特徴的なその風貌が気になってならず、その青年の後を歩きながらつい話しかけてしまったそうに御座います。
「失礼だが、君は最近この寺に来たのかね。私の顔に見覚えが無い様だし、私も君の顔を今まで一度も見たことが無い。」
すると青年は歩きながら、
「はい、母がこの度ここの尼をするからと言って、しばらく私もこちらにご厄介になることにしたのです。羅含法師様とお知り合いでしたか、失礼致しました。」
「いや構わぬが、そなた名は何と言うのかな。」
「これは失礼致しました。申し遅れましたが、私は軋犖山(あつらくざん)と申します。父は胡人(ソグド人)、母は突厥の出で御座います。」
「そうか、将来はここの僧にでもなるお積りか?」
「いえ、ここへは母のお供で来ただけで、もうすぐ元服の為に故郷の営州に帰り、その後は武で身を立てる所存です。」
と青年は、相変わらずにこにこしながら人懐っこく返事をしました。
「そうか、胡人では出世も難しかろう。また景教も受難の時で、母上も苦労が絶えぬな。」
「はい、でも私の名『軋犖山』とは、大秦(ローマ)の偉い将軍の名(実際はマケドニアのアレクサンダー大王のこと)だとか、武官ならこの体格を活かして幾らでも手柄を立てられると思うんですよ。そして偉くなって景教を国教にして、おっ母さんに楽させてえんだ。」
「ほう、その志は大したものだな。」
そう青年と話している内、これまで見慣れた寺院とは全く違う大秦寺の大伽藍の中に通され、もう相当にお年を召された羅含法師様とその片腕で同じ様に年を召された大徳(ガブリエル)法師様が、見たこともない景教の僧衣を着て、父弁正を待っていて下さいました。他の宗派の僧と最も異なるのは、同じ剃髪でも景教僧侶の場合は頭頂部だけで、その回りの毛を残してあることでした。青年は一つお辞儀をすると、どこかへ去って行ってしまいました。この青年が、後の安禄山で御座います。私は大徳法師様に書物を手渡し、かしこみながら言葉を添えました。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊