一縷の望(秦氏遣唐使物語)
それと無く梨花の言うことを支持している父の言葉に、馬養様は怒りが静まり、腕を組んで考え込んでしまわれたのです。
「しかし、父不比等より頂いた名を、父の許しも得ずに勝手に異国の地で改名する訳にもいかぬし。困ったな。」
すると、再び梨花がこう言ったのでした。
「それなら、『うまかい』と云う音はそのままにして、字だけ変えればいい。私は字の吉兆が分かるから、代わりに考えてやっても良いぞ。」
「な、何本当か。」
「あぁ、こう書くんだ。」
と言って、梨花は用意していた竹簡に、やはり用意していた墨の付いた筆で、「宇合」と書いたのでした。馬養様はそれを見て、嬉しそうにこう仰ったのです。
「宇合、これで『うまかい』と読むのか。」
「あぁ、いささか当て字だが、唐の役人、特に皇帝には分かるまい。それに『うまかい』
なんて音の字はそうそう無いぞ。」
「そうか、『宇合』は『うまかい』とも読むのか。分かった。有り難い、これで唐の役人や皇帝の前で恥を掻かずに済むぞ。梨花様、恩に着るぞ。」
「ほう、感謝するなら、態度で示し欲しいものだね。」
「これ、梨花止めなさい。」
「いや、弁正様、良いのです。梨花様、私に出来ることで何か望みがあるのか。」
「何、宇合様なら造作も無いさ。今度私はここにいる朝元様と夫婦になるんだが、その記念にお義父様の故郷に夫婦で行ってみたいと思ってたんだ。旦那様は私が仕込んだんで倭の言葉も分かるから通詞にもなるし、第一医者なんだぞ。それに父親仕込みで囲碁も名人だ。機会があったら宇合様にも教えてやろう。ただし、私達を来海させてくれたらな。」
「うーむ、帰りの遣唐使船に乗せろと云うのか。そこにいるのがお前の夫となる朝元か?
主も日本に行きたいのか。」
その時まで黙って梨花の話を聞いていた私は土下座をして、とうとう我慢出来ずにこう言ったのでした。
「宇合様、お願いで御座います。どうか私達夫婦を、父の故郷の倭にお連れ下さい。私は自分の力がどれだけのものか、異国で試してみたいのです。」
私の熱意に絆(ほだ)されたのか、宇合様は少し考えた末、こう仰ったのでした。
「分かった。安請け合いは出来ぬので即答は出来ぬが、遣唐押使(多冶比真人県守(たじひのまひとあがたもり))様や大使(阿部安麻呂)様と相談して許可をもらうこととしよう。なに、それだけ取り柄が有れば、こちらも推し易いというものだ。」
こうして私達夫婦は、日本へ行けることとなったのでした。
この後玄ぼう法師様は仏哲法師様と一緒にこの地に残られ、濮陽の報城寺で智習法師様に法相宗を学びに行かれ、さらにその合間に、仏哲法師様に密呪(密教の呪術)をお習いなさるのです。しかし、この時腕力も法力もお有りになる玄ぼう法師様と別れたことに、私は後々後悔することとなるのでした。
遣唐押使(正史)であらせられる多冶比真人県守(たじひのまひとあがたもり)様や大使の阿部朝臣安麻呂様、副使の藤原宇合(うまかい)様は数々の朝貢品を献じなさると、とにかく陸路唐の都長安へ馬に乗って行き、鴻?(こうろ)寺の四方館(迎賓館)に着いたので御座います。長安においては中書省の御世話になることになりました。翌日まず、学を志す者の目標でもある孔子廟堂へ参拝したのです。
ところで審祥法師様は、先に唐僧道?(どうせん)様と共に道中洛陽で別れ、大福先寺で華厳宗を修めに参ったので御座います。かの僧は、我ら秦氏の役行者(えんのぎょうじゃ)様やその後を継ぐ法澄様が作りだした山岳仏教に理論的裏付けをする為、山岳信仰の先達である華厳宗をその手本にと考えているのでした。むろん修験道は法力があって初めて効果を発揮するのであって、理論があっても生まれついての才が無ければ何も出来ぬのですが、華厳宗を手本にすれば、法力のある者ならその力を効果的に発揮出来ますし、また力の無い者を信者とする時も説明がしやすいと云う利点があるので、審祥法師様が我らの代表として、はるばる華厳宗を学びに来たと云う訳なのです。華厳とは「花で飾られた広大な教え」と云う意味で、大陸発祥の教えではありますが、半島で大きく重視された仏教の宗派の拠り所とする教えです。
それは当時ようやく半島を統一した新羅国が、征服した高句麗や百済の人々と心を一つにする為に、この華厳経を利用したからなのです。
ついで阿倍仲麻呂様は唐の太学館に入り、科挙(今の上級公務員試験)に挑戦する準備をする為に、真備様と共に我が家に取りあえず下宿をし、太学への入学を目指すこととなりました。もちろん従者である羽栗吉麻呂も共に行かれましたが、唐側の従者として唐人の袁(えん)晋(しん)卿(けい)少年が付かれました。下道真備様は我らの一味である関係から仲麻呂様と共に我が家に下宿して、様々なことを勉強することとなったので御座います。その中身は、まず宮廷に上がれば囲碁好きの玄宗皇帝陛下は、必ずや囲碁の対局を望むでしょうから、その時皇帝の機嫌を取れる様に、遣唐使の留学生(るがくしょう)の中で一人位囲碁の心得があった方が良いだろうと、父弁正が囲碁の技術を真備様に指南致すこと致しました。また儒学者趙玄黙(ちょうげんもく)様がいらして、今宮中で話題の「文選」「野馬台詩」の解読を始めとする講義をすると共に、婆羅門(ばらもん)僧菩提僊那(ぼだいせんな)様もいらして婆羅門呪術の手解きをしたので御座います。
次の年の唐の暦で開元(養老元・西暦七一七)年のこと、賀正の式の後一月後半に行われ
る元宵観燈(がんしょうかんとう)(留学生の謁見式)に、押使様や大使様・副使(藤原宇合)様と全員の留学生(玄
ぼう法師様や審祥法師様以外)と一同の世話役と言うことで、即位前の玄宗皇帝陛下ともお知り合いだった父弁正が列席したので御座いました。時は将に「開元の治」と呼ばれる唐朝の絶頂期で、正月の終わりも意味する元宵観燈は唐以外の国の風習を取り入れたものと言われ、当時は夜は暗闇が当たり前と言われていた中、その財力に物を言わせ、幾万もの赤い提灯に一斉に灯りを付けて、華やかに開かれたものであります。玄宗皇帝は意外に優しげな御顔立ちでしたが、さすがに自ずと湧き立つ様な威厳が感じられました。その右脇には、名宰相と唄われた姚崇様と宋環様のお二人が先頭に立って名立たる文官達がそれに続き、末席には宮廷画家の呉道玄様と道士の司馬承禎(しょうてい)様が、高弟の呉?(ごいん)様を従えていらっしゃいます。実はこの道士は、宮廷における我らの情報源となっておられたのでした。左側には、名将陳玄礼様や張守珪様を含む武官が一列に並んでいたそうです。玄宗皇帝はこの時四〇歳、将に絶頂期でありました。後ろには恐ろしい程背が高く痩せた宦官の高力士様が控え、この場の進行をしております。その高力士様が、こう仰ったのでした。
「次は唐に留学した倭国留学生の皆様が、陛下に新年のご挨拶に参りました。」
一同両手を胸の前で合わせて唐式の挨拶をして、皆を代表して下道真備様がご挨拶致しました。
「皇帝陛下。明けましてお目出度う御座います。陛下の御世が、千年万年と続きます様に。」
すると皇帝陛下は極めて上機嫌で、
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊