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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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が空しく過ぎてしまったのでした。密教を学ぼうとする円仁様のこの窮地を見兼ねた天台系の修験者達は、再びその情報網を駆使したのです。そして承和三年、陸奥国白河郡にて大量の金を発見させたのでした。これによって予算不足の問題が一気に解決すると、ようやく遣唐使の準備も本格化し始めたのです。出発に先立ち、今は亡き藤原清河様や阿倍仲麻呂様らの霊に航海の無事を祈願し、いよいよこの年の五月十四日、難波の港を船出したのでした。難波の港から筑紫へ行き、七月二日そこを出航したのですが、その直後に強風に遭い、遣唐使の四船とも西海道に引き返したのです。特に第三船は、大破してしまったのでした。船を引き返した遣唐使の六百余人は筑紫の太宰府に収容され、遣唐大使の私(藤原常嗣)と副使の小野篁様はさっさっと京に戻ってしまったのです。円仁様を含めた他の大部分の者は、そのまま大宰府に逗留することとなってしまったのでした。この時円仁様は、新羅人の唐武将にして大商人の張宝高様と知り合いの筑前大守小野末嗣様に、かの方への紹介状を書いてもらうことに成功したのです。この張宝高様と云う方は別名を弓(クン)福(ボク)様とも申しまして、朝鮮半島には我ら秦氏の祖弓月君(ゆつきのきみ)や日本にも弓削(ゆげ)氏が有ります様に、我れらが一味でありました。またかの方は秦澄大和尚様の父上の三神安(みかみやす)角(ずみ)様の商団とも付き合いがありました。同地で奴隷同然の出身でありながら苦難の末この地位まで登りつめ、筑紫の秦氏とも商売上の繋がりがあったのですが、そんなことは、小野末嗣様も円仁様も知る由もありません。ただ、渡唐してから違法残留する積りでいた円仁様は、向こうに誰か頼りになる方を作っておきたかったのだと思われます。
 次の年(承和四年)三月十九日、私は再び遣唐使の使命を帯びて京を出発したのですが、副使の篁様はこれに同行せず、わざわざ五日遅れて京を発ったのでした。この位の時から、私と篁様の確執は始まっていたものと思われます。小野篁様は、あの最初の遣隋使で有名な小野妹子様の子孫でいらっしゃいます。身長は六尺二寸(一八〇センチ以上)の偉丈夫で、若い頃から武芸ばかりを嗜んでおりましたが、嵯峨天皇陛下に窘められて学業に励み、その文才は「天下無双」と讃えられています。極めて有能な方では有りましたが、閻魔大王の官吏を夜務めていた等と噂され、「野狂」と云う渾(あだ)名される程反骨精神に溢れておりました。因みに、篁様の父の峯守(みねもり)様は、空海様の漢詩友達でもあったそうです。
 その年の七月下旬、三隻となった遣唐使船は筑紫を発ったのですが、再び直後に逆風を受け、船の修理の為筑紫に留まることにしたのでした。
 そして翌年の承和五(西暦八三八)年、陛下は再び出発することを促し、大般若経を転読して航海の無事を祈った後、すぐ出発する筈でした。しかし、私の乗る筈だった船に欠陥が見つかり、副使の小野篁様が乗る筈だった船と黙って交換してしまったことを不服として、篁様は病気と称して乗船を拒否されてしまったのです。その後、篁様は朝廷批判の詩を作ったことも有り、官位を剥奪されて隠岐へ配流されておしまいになられたのですが、その時詠ったものが、この歌なのです。
わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣人
 意味は、「大海原を多くの島を渡って行く遣唐使船が、今漕ぎ出して行きました。張宝高様に宜しくお伝え下さい。海人(新羅人)の交易船の方々。」と解釈しましたが、いささか意訳し過ぎましたでしょうか。
 第二船の指揮を遣唐判官の北家藤原豊波様に交替し、いよいよ三度、船は出航したのでした。今回の航海は前に比べれば順調で、私と円仁様の乗る第一船はわずか七日間で唐に辿り着いたのです。第二船はだいぶ遅れてから出航し、第一船と共に出航した第四船は、せっかく唐に着きながら長江下流で座礁し、沈没してしまいました。ただその人員と荷物だけは、無事上陸出来たのです。苦難の末揚州に向かい、そこから首都長安へ出発したのでした。しかしこの時円仁様とお仲間の円載様は、台州国清寺への旅行許可を揚州の都督に求めるのですが、結局私達大使一行が長安に着いてから改めて申請せよ、と云う煮え切らぬ回答しか得られず、仕方無く円仁様達は、ここ揚州に唐側から禄をもらって居残ったのです。
 開成四(倭の年号で承和六年、西暦八三九)年十二月三日、苦労の末長安に到着した私達一行は、礼賓院で宿泊致しました。そして文宗陛下に拝謁して、二僧の台州行きを申請したのですが、留学僧の(長期留学生)の円載様のみが許可され、請益僧の円仁様は不許可になってしまったのです。
 唐都長安での朝貢使としての仕事を終え、我々遣唐使一行は帰国の途に就くこととなりました。行きは揚州でしたが、遣唐使船は全船帰りの航海の役に立たぬ程破損しておりましたので、楚州(現在の淮安(わいあん))へ向かい、新羅訳語(新羅語通訳)の金正南様の用意してくれた、遣唐使船に比べて小型の新羅船九隻に乗りに行ったのでした。そこで円仁様達と合流し、かの僧からこう言われたのです。
「このまま何も為さずにおめおめと帰る訳には参りません。密かに使節団を離れて、居残りたいと思います。」
「それは苦難の道ですが、信仰の為にそうせざるを得ないと仰ると云うのでしたら、私も及ばずながらご協力致しましょう。その信仰は、どうやら私の祖母の秦氏のものと相通じるものの様ですから。取りあえずはこの新羅船に乗って山東半島の密州まで行き、そこの張宝高様に味方する新羅商人達の力を借り、天台山へ行く道を模索致すが宜しいでしょう。」
と私も答えたのでした。円仁様は、それに対して力無くこう返事をされたのです。
「せっかく大宰府で筑前大守様(小野末嗣(すえつぐ))から手に入れた張宝高様への紹介状を、私は船の上で嵐で無くしてしまったのです。どう致しましょう。」
「そうですか。それならばもし張宝高様に会えたなら、秦の名前をお出しなさい。そして自らの信仰心を正直にお話しするのです。そうすれば、きっとお力を貸して下さるでしょ
う。ここに黄金二十両があります。わずかですが、これを餞別としてお持ち下さい。」
 円仁様は私の言葉にまだ半信半疑なご様子でしたが、もうここまで来たらその言葉を信じるしかありませんでしたから、礼を言って餞別を受け取り、私の言葉を良く反芻して頷いておりました。