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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 この乱の主役を演じるのは、北家藤原良房様です。同じく北家冬嗣様の御次男で、冬嗣様は内麻呂様の同じく次男、その内麻呂様は大納言真楯様の三男で、真楯様は北家の祖房前様の三男でした。房前様が豌豆瘡で急死された後、三男であった真楯様は傍系となりながら聖武陛下にその才覚を認められ、何とか大納言まで登りつめました。その三男であった内麻呂様は、真楯様の兄である実力者の永手様が道鏡法師に呪い殺される直前に病死し、内麻呂様らが北家の嫡流となられたのです。その所為か、大納言だった父よりも一つ上の位の右大臣にまでなられました。その長男である真夏様が薬子の変に連座し、参議の地位を剥奪された上左遷されてしまわれたので、次男である冬嗣様が北家の中心となられたのでした。その冬嗣様の次男である良房様は、嵯峨天皇のご息女を妻に迎え、父に引き継いで陛下から深く信用されていたのです。兄である長良様は、温厚、実直なお人柄で、出世の速度こそ弟の良房様に抜かれはしましたが、子宝には恵まれ、良房様にもご養子を出す等、これ以降繁栄する北家の祖とも言うべき存在となるのでありました。   
 承和七(八四〇)年、時の陛下である淳和天皇が崩御し、正良親王様(後の仁明天皇。嵯峨天皇の第二皇子)が即位され、皇太子に垣(つね)貞(さだ)親王様(淳和天皇の皇子)が選ばれたの
でした。それに対し良房様は、御自分の妹が陛下の皇子として産んだ道(みち)康(やす)親王様(後の文徳天皇)を推し、それが垣貞親王様にかなりの圧力となっていられたのです。
 その二年後の承和九年七月、良房様が信頼を受けていた嵯峨上皇陛下も、離宮嵯峨院で乳母の太(うず)秦(まさ)浜(はま)刀自女(とじめ)様ら側近に見守られてついに崩御されたのです。当時既に七十を超えていた乳母は、よろよろとした足取りで不遜にも亡くなられた上皇陛下に寄り添われて横になられると、
「ぼんさん、ただ今、浜が参りますどす。」
と一言呟いて、そのまま眠る様に息絶えられたそうに御座います。これで、日本の平和の象徴的存在であった空海様と嵯峨上皇陛下と太秦浜刀女様が亡くなってしまったのです。これより本格的な血生臭い抗争劇が本格的にその幕を切って落とされるのでした。
 その二日後陛下(仁明)は、恒貞親王様の側近である伴健岑(とものこわみね)様と橘逸勢(たちばなのはやなり)様(かつて空海と共に留学生であった者)とその一味を逮捕し、さらに垣貞親王様の舅であった北家藤原愛発(ちかなり)様や父親である陛下の乳兄弟であった式家藤原吉野様、東宮大夫だった文室秋津様も謀反人として処分し、即刻皇太子は廃太子となって、道康親王様が皇太子となられたのでした。これは、良房様系統の者以外の人々を排除する露骨な行為であります。それは藤原氏以外の氏はもちろん、同じ藤原でも北家以外、さらには北家の中でも良房様の系統以外は全てを指していました。これによって今後、北家藤原家の良房様系統の長い全盛期が訪れるのです。私(常嗣)等の良房様系統と遠縁の者は、同じ北家と言っても、細々と生
きて行くしか無くなるのでありました。これが、所謂「承和の変」の顛末なのです。
 余談になりますが、逮捕された橘逸勢様は姓を「非人」と改められ、伊豆に流罪となりましたが、その護送の途中亡くなられたのでした。この「非人」と云う言葉が差別的に使われたのは、この時が初めてなのです。その後この言葉は、差別された人々全般を指す様になっていくのです。
 その橘逸勢様が死罪を免れたのは六十余歳と云う年齢の所為とも、また逮捕後の拷問の所為とも考えられます。その流罪の護送の時、年取って傷ついた逸勢様の後をその娘が付いて来て、官兵が何度追い払っても追跡を止めなかったのでした。しかし護送の途中で逸勢様が亡くなられると、その埋葬も許されずその場に放置された遺骸の前を娘は離れず、その場で髪を切って「妙冲(みょうちゅう)」と名乗って尼となってしまったのです。そしていつまでも父の遺骸の側を離れず、道行く人の涙を誘ったのでした。その結果ついに埋葬が認められたので、妙冲様は父の遺骸を背負って都へ帰って埋葬し、後にそこに橘神社が作られたのです。その後逸勢様の霊は祟りをなし、仁明天皇陛下を四一歳で崩御させ、その後を継いだ文徳天皇陛下も、三二歳の若さで崩御されてしまったのでした。この為逸勢様はその死後二階級昇進し、正五位を追贈されたのです。生前三十年間昇進出来なかった逸勢様が、怨霊となって初めて死去八年後に昇進されたのでした。しかし、空海様の生前は撲滅した筈の怨霊が、その死後その友人によって蘇るとは、誠に皮肉な話かと存じます。
 そんな政変の直前の承和元(八三四)年、新しい積極的な陛下(仁明天皇)の元、遣唐が計画され、当時参議であった私が遣唐大使に任じられるのです。同時に遣唐副使には小野篁様が選ばれ、円仁様は本人の希望が無視されて、留学僧(長期留学生)では無くあくまで請益僧(短期留学)となってしまわれたのでした。これは、当時既に本当の密教に関しては高野山、と云う常識が朝廷に出来つつあり、比叡山にきちんとした密教を習わせるよりも、四十路を越える円仁様には準官寺の責任ある仕事を長く放り出して欲しく無かったからなのです。しかし当時比叡山は密教をきちんと習得し、高野山に付けられた差を無くそうと云う共通認識は有ったものの、義真(初代天台座主)様と円珍(五代天台座主)様を中心とする派と、円澄(二代天台座主)様と円仁(三代天台座主)様を中心とする派とが対立しており、派閥が有利となる為にも、本場の天台山へ行って密教を習得して高野山との差を無くすことが急務となっていたのでした。ですから円仁様は、密教習得をする目的で最初から遣唐使の他の人々とは離れ、別行動で天台山を目指すお積りだったのです。
 そしてもう一つかの僧には、唐へ行ってやってみたい念願があったのでした。
「唐へ行ったら、尊敬する勤操大僧都の理想としていた文殊の密教修法の八字法を是非とも習得したい。」
 そう、円仁様は、いつか空海様に仰った希望を今も抱いておられたのです。
 しかし陛下の意図とは裏腹に、朝廷全体に遣唐使不要の機運が高まる一方、全体の予算
も枯渇しており、その準備は遅々として進まぬまま、遣唐使担当者の発表から二年の月日