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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 こうして私達一行は旅立ったのですが、途中新羅船の漕ぎ手達が、今後はもっと半島寄りに航海すれば倭に近いはずだ、と主張したのに対し、私以外の日本の乗組員全員が新羅への敵意を露わにしてそれに反対し、新羅人の目の前でしかも助けてもらっていることも考えず、この様な態度を殆どの者が取る程、日本の者の新羅に対する感情は敵意に溢れたものになってしまったのかと思い知らされたのでした。そこで九つの船を二手に分け、一方が従来の南の航路を取り、もう一方が円仁様達四人を乗り換えさせて密州の方へと向かわせることとしたのでした。しかしこの方針は直前になって変更され、円仁様達の船もこのまま日本へ行くこととなり、一行四人は慌ただしく船を降りて上陸せざるを得なかったのです。船は風が良い時に船出しなくてはいけないので、不安そうにこちらを見送る円仁様達を置いて、その日の内に出航しなくてはなりませんでした。強い西風が吹き荒ぶ中、四人の中で一人だけ背が高く、私達に向かって童の様に懸命に手を振る円仁様が遠ざかるのを見ながら、私はこんなことを考えていました。
「いかなる苦難がこの先待っていようとも、あの方はきっと成し遂げる。そんな気がする。そうして真に密教を学べば、きっと空海様の様な考えになるに違いない。薬子様と仲成様が死んで、秦氏の俗世の権力を握ると云う夢は潰えた(嵯峨天皇と太秦浜刀自女のことは、この時常嗣の頭に無かった)。しかし考えてみれば、これは大前提である、全ての人にとって平等な世を作る、近頃唐の韓愈の言った『一視同仁』と云う夢に矛盾しているのではあるまいか。よって、我らのもう一つの夢である宗教によるこの世の変革は空海様が成し遂げ、さらにその後継者としてあの円仁様が居られるのではないか。円仁様は比叡山でありながら、空海様の考えをきっと継いで下さるに違いない。そうして我ら秦氏の一縷の望は、受け継がれ受け継がれて、未来永劫続くのだ。」
(この後円仁は張宝高とは巡り会えなかったが、当時新羅と争っていたかの方に味方する商人達と知り合い、その商人に託した書簡の中に、その熱心な宗教心を赤裸々に訴えると同時に、自分の宗教心は秦氏の物と同じであることとを、円仁様も半信半疑だったので口
頭でその商人に付け加えさせたのだった。その書簡と伝言に義侠心をほだされると同時に、
遠縁の日本の秦氏の理想を実現すべく、張宝高は知り合いの新羅人等を通じてかの僧を厚
く庇護するのである。その後円仁は、大陸中を歩き周り、師匠の最澄の様に後悔なきよう納得いくまで密教を必死で身につけるのだった。それは九年間に及び、その間に庇護者で
ある張宝高は暗殺されるのだが、その部下がその志を継ぎ、無事円仁を帰国させ、念願の文殊の密教修法の八字法を日本に齎すのである。そしてそれはやがて、台密(比叡山天台宗の密教)・東密(高野山真言宗の密教)を問わず重んじられる様になった。しかし、その真の目的である文殊信仰による被差別の貧者の救済は、本格的には鎌倉時代の叡(えい)尊(そん)・忍性(にんしょう)を待たなければならないのである。
 また帰国の航海の途中、あの秦河勝の変化(へんげ)である蕃神摩多羅神が円仁に声を掛け、守護神になりたいから、共に倭の国へ行こう、と言うのだった。それ以来、摩多羅神は比叡山の守り神となるのだが、その神はそれと同時に、秦氏の氏寺とも云うべき広隆寺の守り神にもなるのである。この辺に、比叡山と秦氏の関係を感じるが、他にも、泰澄大和尚が関係した白山神社は、後に比叡山の別院となるのだった。
 一方、承和六年に帰国した藤原常嗣は巻き起こる承和の変にも蚊帳の外で、本人の身体を壊して引き籠ることが多かった。ある日、暇に飽かせて太秦の家を整理することを手伝ったことがあり、その時偶然朝元や泰澄大和尚や吉備真備の綴った記録を見付け、太秦の家の者に断ってその続きを書かせてもらうことになるのである。それは、翌年四月二三日亡くなるまで続くのであった。
 円仁が帰国したのは承和十四年十二月十四日で、師最澄が念願して叶わなかった空海の密教を取り入れた天台密教を作り上げていくのである。またこの時円仁は、唐から阿弥陀信仰を日本と云うよりも比叡山に持ち込んだのであった。阿弥陀如来は本来十一面観音の一部の化仏(けぶつ)に過ぎない。十一面観音の正体は九頭竜であった。阿弥陀像は元々九つセットで、九つの頭を持つ物なのである。阿弥陀仏とは、元々あの秦氏の八幡神の本地仏なのだ。秦氏の信仰はこれ以降、八幡神としても、また阿弥陀信仰としても日本中に流布していくのである。阿弥陀信仰は源信等の僧によって熟成され、鎌倉時代に入って秦氏の法然によって浄土宗となって華開く。弥勒菩薩は阿弥陀如来に、兜率天は浄土に受け継がれ、秦氏の精神は再び教えとなって、万民救済の為に流布されるのである。こう考えてみると、円仁の師である最澄の結縁した仏の金剛因菩薩が阿弥陀如来の脇侍であったことは、象徴的なことであった。
余談だが法然が比叡山に上る前、行基の創建した秦氏の那岐山菩提寺(なぎさんぼだいじ)にいたことによって、行基が為してきた無縁菩薩の供養と、弥勒信仰のあった鑑真和上の墓が後の唐招提寺に残されたこと、そして怨霊の供養が修験道や密教の僧達に任されることが合わさって、それまで仏教と関係の無かった葬式が現在の仏式の葬式へと確立されていくのである。
 円仁の後、弟子の相応がその精神を受け継ぎ、かの僧は天台修験の祖となるのだった。その為今なお修験者は、円仁の師であり、泰澄大和尚の生まれ代わりである最澄が、『願文(がんもん)』で述べた次の言葉を唄いながら、日々山々を駆け回っているのである。
「懺悔(さんげ)♪、懺悔♪、六根清浄(ろっこんしょうじょ)♪」                       )
  
                                      了                                    
                                            

(参考文献)
秦氏の研究(大和岩雄)大和書房
秦氏とカモ氏(中村修也)臨川書房
謎の渡来人秦氏(水谷千秋)文春新書
日本古代史人名辞典(阿部猛)東京堂出版
日本史モノ事典(下中直人編)平凡社
平城京全史解読(大角修)学研新書
民衆の導者行基(清水侑)吉川弘文館
奈良時代の人々と政争(木本好信)おうふう
平城京(宮本長二郎)草思社
資料日本歴史図録(笠間良彦)柏書房
人物で読む平城京の歴史(川合敦)講談社
平城京の謎(武光誠)主婦と生活社
万葉集一〜四、万葉集事典(中西進)講談社学術文庫
続日本紀上・中・下(宇治谷孟)講談社学術文庫
日本後紀上・中(森田悌)講談社学術文庫
懐風藻(江口孝夫)講談社学術文庫
中国食の文化史(王仁湘 訳鈴木博)原書房
白の民俗学へ(前田速夫)河出書房新社
白山信仰の源流(本郷真紹)法藏館
日本の呪術全書(豊島秦国)原書房
民衆の導者行基(速水侑)吉川弘文館
隼人の古代史(中村明蔵)平凡社新書
古代東北史の人々(新野直吉)吉川弘文館
天平に輝く吉備真備公(高見茂)吉備人選書