一縷の望(秦氏遣唐使物語)
そして空海様は、かつて幼い頃自分の故郷の讃岐で、若くして?で死んだ自分の初恋の少女のことを想い出しながら、
「菅女(すがめ)よ、まだだ。まだ兜率天へ連れて行くな。まだ拙僧は死ねぬのだ。やり残したことがある。しばし待て。」
と密かに呟かれたのでした。
そして翌年の十一月十二日より穀味(米・麦などの五穀)を断ち、専ら座禅をして身を内部から清め始めたのです。それは?の病に、かつて成敗した不破内親王も罹っていた白癩(しらはたけ)(ハンセン氏病)も併発してしまい、もはや自分の術や知識を以ってしてもどうにもならないことをお悟りになられたからでした。
「おのれ不破内親王、ついに拙僧のことを捉えたか。」
と空海様は呟き、せめて術や化粧や衣服を以ってこの病の併発を周囲に隠され、また感染も防がれたのでした
その一方再び譲位があり、嵯峨上皇の第二皇子である正良(まさら)親王(仁明(にんみょう)天皇)が即位し、年号も承和(じょうわ)となったのでした。その承和元(西暦八三四)年の間に自らが住職を兼任する高野山、東寺、神護寺(かつての高雄山寺)の後継者を全て指名したのです。十一月十五日、ついに肝の臓まで病が達したことを悟られた空海様は弟子達を集め、こう話されたのです。
「私が入定するのは、来年の三月二一日寅の刻(午前四時頃)である。皆の者、嘆き悲しむのではないぞ。」
翌年一月二二日、真言宗の年分度者(公的に援助する僧)を三名にすることを許可され、さらに二月三〇日高野山金剛峯寺が定額寺(公的援助を受ける指定寺)となったのでした。この時ついに、比叡山の年分度者二名を超えられたのです。その間、水分さえお断ちになってしまったのでした。そして三月十五日、空海様のいる高野山金剛峯寺に、空海様より老齢の阿刀大足様(当時は還俗していた)、東大寺より引き抜いた弟子の上座(総責任者)である杲(ごう)林(りん)様、一番弟子の実恵様、甥の智泉様は既に亡くなられておりました、最澄様の弟子から移られた秦氏の泰範様、二五歳で伝法潅頂を授けられた秀才真済(しんぜい)様、空海様の弟の真雅様、平成天皇陛下の子で俗名を高岳親王と仰った真如様等が集まった所で、空海様は床に付しながら弟子達に最期の言葉を伝えられたのです。すなわちそれは、次の様なものでした。
「いよいよ私も入定する時が近付いた。入定してからは兜率天に住み、弥勒菩薩様に侍り、永遠の禅定に入るのだ。」
そして予言された運命の日である同月二一日、降り頻る大雪の静寂の中、容体が悪化してついに入定されたのでした。病状の悪化によって穢れた身体を、秦部の者(秦氏に付属する下層の者)に火葬させたのです。しかし死の直前、死ぬのではなく入定する、と云う言葉を使ったことがいつしか曲解され、奥の院の洞窟の霊廟に即身仏として今も座してい
らっしゃるとも言われています。恐らくもしそうだとしたら、ついに宗教の世界で成し遂げた秦氏の悲願(秦氏の教えによって日本の宗教を統べること)の行く末を、永遠に見守っていらっしゃるのかもしれません。空海様がただ一つ心残りだったことは、自らの居並ぶ弟子の中に円仁様の様な後継者が見当たらなかったことでした。ですから、自ら永遠の命を得、真言密教の行く末を見守りたかったのでしょう。高弟達の名誉の為に申し上げておきますが、彼らの中に有能の者が決していなかった訳では無いのです。ただ空海様があまりに完璧な為に、弟子達は空海様の教えを忠実にそのまま実行出来ることにその才能を費やし、時流に合わせた教えの工夫を怠り、結果として空海様から自立した教えを確立したりして、以後の歴史に名を残す方がいらっしゃらなかった様に思われてなりません。最澄様の入滅の時にも申しましたが、最澄様と云う師がその欠点を素直に自覚していればこそ、そのお弟子達は師の助けとなるべく自立し、その時流に合った教えを確立して行かれたのだと思われます。
蛇足ではありますが、この入滅の前日、如意阿闍利様(真井御前)三十三歳の時、遠く離れている空海様の変事をお悟りになり、自ら命をお断ちになって兜率天に向かわれる空海様をお出迎えなさったのでした。これは、空海様の尊敬する聖徳太子様がやはり崩御なさる時、妃のお一人で年の離れた膳太郎女(かしわでのおおいらつめ)様が共に亡くなった故事に倣ったものと思われます。いずれにしろ、お二人の愛は兜率天において永遠のものとなられたのではないでしょうか。
こうして空海様が永遠の禅定にお入りになり、それまで血生臭い政争に明け暮れていた都が、薬子の乱から空海様の生存中二五年以上平和を保っていたのですが、それもついに終わりを告げ、再びきな臭い世の中に戻ってしまうのでした。
最終章 承和(じょうわ)の変、そして再び唐へ。
わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣人
(小野篁(たかむら)作 新古今和歌集所収)
この歌は、私と共に遣唐副使に任命された小野篁様の作品です。意味に関しましては、お話と深く関係してきますので、またその時にお話したく思います。
さてまずは、秦一族のその後について語らせて頂きたく思います。秦の本家とも言うべ
き太秦家の宅守様が亡くなった後、かの方と折り合いが悪かったその五人のお子様達は、
それぞれ太秦とも秦とも違う姓に変え、一族は一つと云う長い原則を本家自ら破ってしまうのでした。すなわち、ご長男の広忠様は「薗」と、次男の広貞様は「林」と、三男の兼
康様と四男の兼氏様は「東儀」と、五男の昌俊様は「岡」と改姓されたのです。それまで奇跡の様な状況ではあったのですが、これ以降それぞれの秦が自らの事情によって改姓し、
他の秦の状況等お構い無しとなっていくのです(朝元の秦はやがて「朝原」へ、それ以外の大部分の「秦」は、空海様の故郷でもある讃岐の香川から来た秦氏が、京に来て賜った「惟宗(これむね)」と改姓する)。しかし、秦の上層や中層の者達がこうして改姓してしまっても、
秦の者達が求めてやまなかった秦の理想は、本人達も驚く程この国に浸透し、空海様の死後も脈々と受け継がれていくのでした。そして長年争ってきた秦同士の争いも、ここで一応終止符が打たれるのです。しかしこの後のその構想は形を変えて、歴史に現われてくるのでした。もっともそれはまた、私の死後のお話でもあります。
また、もはや秦一族と係わりの無いことではありますが、平和の象徴でもあった嵯峨天皇陛下や空海様が亡くなった後、前述した様に再び世は乱れ、相変わらず藤原氏を中心とするいざこざが絶えなくなるのでありました。この頃のそれは「承和の変」と申しまして、秦氏と無関係と申しましても、私の属する北家藤原氏が中心的に関わることですので、一応簡単に述べておきましょう。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊