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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 同じ天長四年、陛下(淳和天皇)の皇后が自分以外の者に決まり、常々宮廷生活に嫌気が差していた真井御前様は翌年二月十八日、侍女二人と共に仏門に入る為宮中を抜け出し、空海様の指示で役行者(えんのぎょうじゃ)様縁(ゆかり)の摂津の甲山(かぶとやま)へ逃げてしまったのです。そこの粗末な小屋で、如意輪観音様に陀羅尼を唱えておりました。この時共にいた侍女の一人は例の采女の長虫で、後にここに真井御前が建てられる神呪寺(かんのうじ)の二世住持となり、名を如円とするのです。如意輪観音はかつてのかの御前がそうであったが如く、宝珠(ほうじゅ)を駆使する仏様でした。その像の形の六臂(ろっぴ)(腕)の形は、空海様が唐より持ち込まれた密教の様式なのです。
 陛下はこの逃走劇に対し真井御前様への想い断ち難く、何度も人をやって御前様が戻る
ように促されるのですが、巌子様は断固としてこれに応じなかったのです。これに対し、
陛下の皇后やその周りの貴族達が騒ぎ出し、巌子様の態度が不敬に当たるとして暮らす庵
を焼き打ちにせよとの強硬論が出て、陛下もその意見の激しさに抗し難く、その庵の下の
寺を焼いて誤魔化しなさったのでした。
 天長五年、南家前(さきの)中納言藤原三守(ただもり)様が東寺の東にあった御自分の舘を提供して、綜(しゅ)芸(げい)種(しゅ)智(ち)院(いん)」と云う学問所にすることを提案されたのです。三守様は没落した南家の中で嵯峨天皇の側近となり、天台・真言の両密教の熱心な信奉者なのでした。そこで空海様は、故吉備真備様の作った二教院等を模範にして創設されたのです。考えてみれば、顔を見たこともないお二人の偉大な方が、こうして秦氏の
理想と云う一つの線で結びついている様は、他人である私が見ても感動的なことなのでし
た。当時の教育施設は官寺が中心でしたが、これは奈良には多いものの、ここ京都には存
在しなかったのです。また北家藤原冬嗣様の勧学院、和気氏の弘文院、菅原氏の文章院が
教育施設としてありましたが、これは一族の若者だけの為のものに過ぎません。それにこ
の学校は、次の三点において実に画期的なものだったのです。

? 身分と家柄を問わず、意欲と才能のある者なら誰でも入学出来る。
?  儒教・仏教・道教・実技・実学(土木など)を総合的に学ぶ。
 これはこれまでの学校が、仏教なら仏教、儒教なら儒教と云う所謂単科しか学べなかっ
たのに対し、何でも学べる様にしたのでした。
?  学費免除、生活費支給とし、身分に関わらず学問に専念出来る様にした。

 この様な経費は、学校に寄進された田などによって賄えることとしたのです。残念なが
らこの学校は、空海様入定後はわずか十年しか存続出来ませんでしたが、秦氏の理想を将
に実現した施設だったと言えましょう。
 天長七(西暦八三〇)年二月十八日、空海様はお忙しい中何度も甲山にお越しになり、わずかな期間で有髪の巌子様(真井御前)を阿闍利位潅頂(得度)を授けてしまい、陛下(淳和天皇)の手の届かない存在とするのでした。それを記念してか空海様は山の木を使って、連れて来た秦氏の飛騨の仏師に巌子様を模した等身大の如意輪観音像を彫らせたのです。巌子様は仏師の仕事中その手本となりながら、三十三日間昼夜を問わず如意輪の真言(お経)を三千編唱えていらっしゃいましたが、ついに完成して開眼供養をすると、突然巌子様の意識が無くなり、空海様の目の前に一匹の九尾の狐が姿を現し、声は巌子様の身体を借りて出されたのでした。
「空海よ、我はその昔秦氏の者共に封じられた者じゃ。よって本来の妖気は当分奪われたままで、何も出来ぬ歯痒い思いをしておった。そんな時、奴らがお前を担ぎ出そうとしていることを知り、仏道を目指す御坊の出鼻を挫いて秦氏の奴らを落胆させてやろうと、海
部直雄豊の妹、藻に乗り移り、御坊を妖力の代わりに色仕掛けで誘惑したのじゃ。ところが御坊の密教はそれ位のことでは揺らぎもせなんだ。そこで功為し遂げたお主の立場を台無しにしてやろうと、今度は藻の姪巌子に乗り移り、その悩みを利用して御坊を慕うよう
に仕向けたのじゃ。しかし御坊ら二人の純愛に、我も絆されてしまった。我は邪心の無い
想いを悪用することは出来ぬ。さすがにこの仏には参った。我はもう二人を邪魔せず、秦氏への恨みも忘れ、稲荷神となってお主を見守ることとしよう。そもそも我が秦氏と関わりを持つ様になったのは、阿倍仲麻呂様と云う験力(げんりき)のある方を見出したからじゃ。妖力も無く誰からも見向きもされなかった我の存在を、あの方とその仲間である秦氏共は気が付
いてくれたのじゃ。そしてわしはその時使える力と知恵を精一杯使って、あの者達の気を引いたに過ぎん。少々悪さが過ぎたがの。じゃが永遠に死なぬ我にとって、人の命など何程も感じぬのだ。じゃが今はこうしてしおらしくしておるが、御坊達の死後何年かして妖
力が戻ったら、どうするかまでは約せぬがのう。」
と言うと、東寺の有る方の空へ飛んで消えて行ってしまいました。お気のつかれた巌子様は、気絶していた時のことを何も覚えてはおりません。しかし完成した如意輪観音像を見ると、九尾の狐が憑いていた時の巌子様を写したせいか、仏様とはとても思えぬ程艶めかしくていらっしゃったのでした。因みに、本来稲荷信仰に狐は関係の無いものでしたが、この時から何時の間にか稲荷神となった様なのです。
 ところで如意輪観音の祭神と言えば、本来宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)でした。この宇迦御魂神こそ、稲荷神の正式名称なのです。
 その後巌子様は空海様から具足戒を受けて頭を丸め、「如意」と名乗られたのです。またこの地に和気氏や空海様の援助を受け、「神呪寺」を建立されたのでした。如意阿闍利様、二十八の時と伝えられます。その後二度と、空海様はこの地を訪れなかったのです。 
 天長八(八三一)年、空海様は?(よう)(水銀中毒等による皮膚病)を得て体調を崩されまし
たが、これ以降も数年活動を続けられたものの、さすがに叙意阿闍利様のいる甲山へ行か
れる余裕は無くなってしまったのでした。恐らく空海様は、その法力と病気に対する知識を以って、?を自ら封じ込めたものと思われます。しかし、さすがの空海様も完全には病
を封じ切れなかったのか、自らの死期を密かに悟り、病が小康状態になるとこれまでの人
生での心残りを払拭させるべくさらに精力的に活動し始められたのでした。例えば入唐した時、密かに楽しみにしていたにも関わらず所所の事情で見れなかった元(がん)宵(しょう)観(かん)燈(とう)を、高野山の行事の万灯会(まんとうえ)として再現させたのです。高野山の夜の闇の中に、煌びやかに輝く十万もの松脂の蝋燭の灯が、一之橋から、やがて自らが入る予定の新築の奥の院までの八里にも及ぶ光を見ながら、空海様は遠い入唐の日々を思い起こしていたに違いありません。実は本場の元宵観燈は色取り取りの提灯なのです。実際にそれを見れなかったかの僧が、こんなものだろうと想像して作ったので違ってしまったのか、仏事だから敢えて変えたのか今となっては分からぬ事なのでした。