一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と最後に真言を千八十回唱えられます。すると九頭竜様は、自らの力では龍封じの結界を破れないので、自分や俊敏僧都よりも位が上で力のある同じ天竺の善女竜王様にお縋りしたのでした。それで突然神泉苑に小さな金色の蛇の善女竜王様を背にお乗せした九尺(約三十メートル)の大蛇の九頭竜様がたちまち現れ、それが泉の中に入って行ったのでした。その途端一点にわかにかき曇り、大粒の雨が降り出したかと思うと、池水が溢れ機内全域に豪雨が降り出し、田畑が蘇ったのです。突然の雨に激怒した守敏僧都様は、西寺から取って返して神泉苑に着きますと、得意の弓を構えて、壇上で談笑する空海様目掛けて矢を射たのでした。あわやその矢が当たるかと思われた瞬間、空海様の弟子らしき方がかの僧に代わってその矢を身に受けたのです。泰範様達が守敏僧都(下手人なので敬称略)を押さえつけて縛り上げ、空海様が驚いて身を呈して助けてくれた僧を抱き起こすと、それは地蔵菩薩様の石像でありました。因みに地蔵菩薩様はお釈迦様が死んだ後、弥勒菩薩様が兜率天での修行が終わるまでの間、現世を任されている方なのです。
事が落ち着くと改めて、真井御前様が雨乞いの成功を祝して、海幸山幸の伝説でも名高く、神功(じんぐう)皇后が竜神から授かった「潮(しお)満珠(みつたま)・潮干(しおひる)珠(たま)」と言う宝珠を空海様に与えたのでした。さらにこの成功により空海様は同年三月少僧都に任命され、六月には勤操大僧都様より造東寺別当を引き継ぎ、九月には毎年分度者一名が許可されることとなり、ついに比叡山の様に公けの援助を受けられるようになったのです。
その後守敏僧都に事情聴衆をすると、
「つい、かっとしてしまってこんなことをしてしまいました。二度とこんなことを致しませんので、どうかお許し下さい。」
と言って何度も詫びるのでありました。そこで、長年上皇陛下に信頼されて仕えていたこともあり、また実際怪我人も出なかったことから、処分保留のまま縛めを解かれ西寺に謹慎となったのです。これはあの日照りが、この僧都の祈祷が原因であることが知られなかった為でもありました。しかし空海様は、密かに日照りの原因が守敏僧都によるものであることを見抜いていたのですが、守敏僧都の上皇陛下からの信頼が厚いことから、確たる証拠も無くそんなことを言っても、きっと信じて貰えないだろうと思い、黙っていたのです。しかし西寺に軟禁された僧都がこのままでは済むとは思わず、東寺に帰ってから呪詛返しの祈祷をしたのでした。これは、相手が呪詛をしていなければ、何の効果も無い祈祷です。しかし何の効能もありません。疑い深い空海様は、呪詛返しは相手が呪詛の祈祷を一度止めなければ効能を発揮しないからだろうと読んだのです。そこで泰範様を使って、西寺の前でこう言わせたのでした。
「守敏僧都、お前の放った矢が当たって、私の大事な空海様が亡くなられてしまった。どうしてくれるのだ。」
これは、矢を放った僧都が、それが空海様に命中したのか外れたのか知らないことを利用したのです。すると間も無く、西寺を見張っていた近衛兵の番長から報告が有り、守敏僧都がそこで死んだことが知らされたのでした。その報告によると、空海様が亡くなられたことを聞いたかの僧都は、
「拙僧の祈祷が功を奏した様だな。」
と言って祈祷を止め、その途端目が眩み、鼻血を出してもだえ苦しんで倒れたのです。この騒ぎに気が付いた見張りの番長が駆け付けた時には、既に息絶えていたと云うことなのでした。
それははともかく先程から出てくる真井(まない)御前様、本名巌子(いつこ)様についてお話ししたく存じます。そもそも空海様が巌子様と出会われたのは二年前、陛下(嵯峨天皇)に東寺を賜るべく宮中に参上した時なのです。空海様はかの方を始めてご覧になり、それが初めての女(ひと)である藻(みくず)様と瓜二つであることに驚かれたのでした。そして陛下への誓願が済んだ後、帰ろうとした所を一人の采女に呼び止められたのです。
「もし、空海様。」
「何か御用ですかな。」
「私、空海様のお弟子の和気真綱(和気清麻呂と藤原小黒麻呂の娘の子)の娘で、真井御前様の采女である長虫と申します。私の仕えている真井御前様が御坊にお話したいそうなのですが、こちらにいらして下さい。」
空海様はお供の弟子達をその場に残し、一人長虫の後をついて行ったのでした。すると東宮御殿の一室に案内され、中には待ちかねていた真井御前巌子様が出迎えてくれました。
「空海様、お待ちしておりました。お帰りの所、急なことでさぞ驚いたことでしょう。」
空海様は懐かしい女と瓜二つの顔を目の当たりにして、内心ひどく動揺されていましたが、それを極力隠しながらわざと平然とお答えになったのでした。
「御用とは何ですかな。」
「はい、初めてお目に掛かる方に大変不躾なお話なのですが、何故か空海様とは初対面の様な気がしないのです。また高名なお坊様と云うこともあり、私の悩みの相談に気持ち良く答えて頂けるかと思ったので御座います。」
そう言う巌子様を良く見ると、顔色は化粧の為分りませんが、ひどく痩せていて寝不足らしい目は赤く血走っておりました。
「ひどくお悩みのご様子。夜も眠れぬものと推察致しました。拙僧で良ければ、何でもお話下さいませ。」
「有難う御座います。実は私は皇太子様(後の淳和天皇)に見初められ、こうして入内致しましたが、どうしても殿下の執拗な想いに馴染めず、しかも他の女御や采女からも冷たくされ、どうすれば良いか分らなくなってしまったので御座います。」
「そうですか。何やら複雑な御様子、今日は話を聞くだけにして、どうすべきかは色々と拙僧なりに調べてからに致したく存じます。それでは、出来るだけ詳しく今の状況をお話し下され。」
と、初対面とは思えぬ親身さで相談にお乗りになったのです。その後空海様は、陛下に御用があって宮中に来る度に厳子様の相談に乗り、あるいは文(ふみ)にて相談に乗っていたのでした。実は御前(ごぜん)は藻の兄である籠(この)神社(秦氏に繋がる物部氏縁の神社)の宮司海部直雄豊(あまべのあたいおとよ)様の娘で、藻とは姪の関係なのです。彼女は叔母から空海様との関係を何度も聞かされており、とても他人とは思えず、思い切って相談に乗ってもらったのでした。話を雨乞いの時に戻しますと、宝珠を思わず褒美としてあげてしまったのは、目の前で見せられた奇跡に感動したからなのですが、ただ巫女が神宝を預ける行為は、情を通じた男に王権を授けることを意味しているのです。
この雨乞いの翌年、空海様がいよいよその名声を天下に轟かせると同時に、勤操律師様も大僧都になられたのでした。その夢である文殊会(もんじゅえ)の官寺の主催に、また一歩近づかれたのです。
継いで天長四(八二七)年、ついに勤操大僧都は入定され、僧正の位が追贈されたのでした。皮肉な事にその翌年、太政官は諸国に対し、毎年七月公費を以て文殊会を催す様に命じたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊