一縷の望(秦氏遣唐使物語)
弘仁十四年、太政官符により空海様は、いわゆる教主護国寺を太秦浜刀自女(うずまさのはまとじめ)様の薦めで陛下(嵯峨天皇)から賜り、東寺と名を変えて真言密教の道場と致しました。空海様はこのお寺を、永真様が還俗して元に戻られた阿刀大足様に俗別当(出家していない事務局長)として任されたのです。そもそも東寺と申しますのは対となる西寺と共に都の入り口の東西に有って、秦氏が提供した土地に今は亡き桓武天皇陛下が、国家鎮護の寺として建立を計画したもので、金堂だけが出来ていて完成すれば迎賓館的な役割を果たす筈でありました。故藤原仲麻呂の兄弟で、その謀反の罪に連座して処分された南家藤原巨勢麻呂様が、秦足長様の孫娘と設けた十二男藤原伊勢人様を長官として造られたものなのです。空海様は、庇護してくれる陛下に教主護国寺(東寺)を賜ることを懇願してそれが許されると、今度は稲荷神を真言密教の守り神としてもらう様に、高弟の秦範様を通して、伏見稲荷の禰宜を兼ねている東寺の稲荷信仰の代表でもある秦鮒(ふな)主(ぬし)様(秦伊侶倶の孫)の所に、空海様が直接お願いに行ってその許しを貰ったのでした。これは、農民や商人や工人が信仰する稲荷神を真言密教の守り神とすれば、それまで一部の貴族や僧だけのものだった真言密教が、民衆に広く普及するだろうことを目論んだからなのです。またその結果、秦氏の信仰する稲荷神をその守り神とする為、例の徳政論争の結果造作の中止されていたその建造も、稲荷山より建立の為の材木を調達し、秦氏で受け持ってくれたのです。こうした努力の結果、真言密教は「お不動さん(空海が日本にもたらした不動明王)」として民人(たみびと)に親しまれることとなるのでした。空海様の目論見は、見事当たったのです。
因みにこの時同時に寺となった西寺は、秦氏の勤操律師様(空海様のかつての師)のお弟子の、雑密(ぞうみつ)の守敏(しゅびん)僧都様を住職にされた(勤操はこの時川原寺別当兼造東寺別当兼造西寺別当)のですが、この守敏僧都様は密かに空海様に対抗意識を持たれ、いつか機会を見つけてどちらの法力が勝っているか、公然の場ではっきりさせてやろうと目論んでおりました。
この守敏僧都様と云う方は水をお湯に変えられたりして、その験力を以ってもともと上
皇陛下のお気に入りの方でした。ところが空海様が上皇陛下とお知り合いになり、自分より偉そうにしている僧がいることに鼻持ちならず、俊敏僧都様の力を陛下の前で封じられて、ひどく恥を掻かされたことがあったのでした。それ以来俊敏僧都様は空海様をひどく恨み、復讐の機会を作ろうと、自ら祈祷して日照りを起こされ、雨乞いの験力を以って空海様と争われようと為されたのです。
そんな折陛下(嵯峨天皇)が例によって太秦浜刀自女様の薦めも有って三十代で譲位され、新しい陛下に異母弟の大伴親王様(淳和天皇)が即位されて、今までの血生臭いものとは違って平和な内に政権移譲が行われることを示そうとなされたのでした。当然年号も天長と変わり、浜刀自女様の故郷にも程近い秦氏の嵯峨野に新たに離宮嵯峨院を造営され、宮廷を辞してそこに乳母らと共に移り住まわれたのです。嵯峨帝の称号はそれに因んで付
けられたのです。
その元年(八二四)年二月、この政権移譲に水を差す天下の大日照りを解消し、またその成功によって新政権の門出を祝う意味を込めて空海様は神泉苑(平安京の
大内裏に接した池のある天皇用の庭)で雨乞いを依頼されたのです。しかしこれはただ雨
乞いを祈祷するのでは無く、新陛下とその愛妾である真井(まない)御前様と上皇陛下(嵯峨)と浜
刀自女様と民衆を含むその他の大勢の観客の面前で、守敏僧都様の希望も有り、法力の対
戦をさせられたのです。僧と言ってもこの時代では、この様な呪術の力を求められている
ことを示す良い例かと思われます。先攻は守敏僧都様で、空海様より何歳か年上で初老の
僧都様は自信満々で、陛下を始めとする無数の観客の居る前で雨乞いの儀式を行い、結願
の七日目わずかに雨を降らせるのに成功したのでした。続いて空海様の番でしたが、守敏僧都様はそれを見ずに、
先攻は守敏僧都様で、空海様より何歳か年上で初老の僧都様は自信満々で、陛下を始めとする無数の観客の居る前で雨乞いの儀式を行い、結願の七日目わずかに雨を降らせるのに成功したのでした。続いて空海様の番でしたが、守敏僧都様はそれを見ずに、
「疲れたから少し休ませてくれ。」
と言って、何故か西寺に籠ってしまわれたのでした。それと関係無く、空海様の雨乞いの儀式は始められたのですが、こちらはいつまで経っても雨雲一つ現れません。空海様の圧勝を信じていた上皇陛下(嵯峨天皇)も陛下(淳和天皇)もその他の観客達も、それだけに最初は息を呑んで展開を見守っていたのですが、結願の七日目になっても何も起こらなかったので騒ぎ始めたのでした。中には、
「何だ、空海、口先だけか。」
等と云う野次も聞こえ始め、かの僧は何故自分の祈祷がうまくいかぬのか分らず、首を捻りながら休憩に入ったのです。自分の弟子達の所へ戻ると、泰範様が空海様にこう耳打ちされたのでした。
「一向に雨が降る様子が無いのでおかしいと思い、守敏僧都の様子を探りました所、かの法師様はこの国中の龍神を封じる祈祷をしておりました。ここは我ら秦氏の守護神でもある天竺の九頭龍様におすがりするしかありません。日本の龍は全て封じられています故。」
「そうか、それで幾ら水の神である龍神に祈っても効果が無かった訳だ。それにしても、この国中の龍神の動きを封じるとは大した法力だな。」
と空海様は答えなすって、心配そうに成り行きを見守る両陛下と真井御前に対し、二日の日延べを請うてこれを了承してもらったのです。その二日の間に、水天の祈雨法の準備をされたのでした。まず弟子達が水壇と云われる物を祈祷場に用意し、北面に水天曼荼羅を掛けられます。また浄衣(じょうえ)を始めとして祈祷に使う全ての道具を、全て水色に塗られたのでした。空海様は二日後、沐浴してから祈祷の場に戻って、まず十六盤の飲食(おんじき)を供養され、次に薫陸香を焼いて龍索印を結び、
「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊