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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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「拙僧は勅命でこの地に来た。今修法を行い、既に仏天は動かした。この池を作る為に力を貸すべくここに集ってきた人々よ、力を尽くせ。」
 空海様のこの言葉に人々は熱狂し、地に身体を投げつけて(五体投地、仏教のおける最も丁寧な礼拝の方法)その感動を表したのでした。佐伯鈴伎麿様も改めて空海様の所へやってきて、感動の涙を流しながらこう言ったのでした。
「真魚、いや空海様、今の説法、皆心が震えたぜよ。これで工事の完成もなったも同然が。」
 そしてあれ程の難工事を僅か一ヶ月程で完成し、雨によって決壊する間も与えなかったのです。また、例によって秦氏の資金と技術の援助も得て成功に導けたのでした。こうした社会事業こそ、我ら秦氏の援助した行基大僧正様以来伝統的に為してきた事業なのです。空海様は、ここ満濃池の他にも大和の益田池など多数の溜め池や水路の工事をお忙しい合い間を縫ってなされたのでした。 
 翌年、東大寺に潅頂道場真言院を設立し、空海様の野望である仏教の全ての宗派の密教による統一の第一歩を印し、この時あの上皇陛下(平城)とその子の高岳親王(たかおかしんのう)様も潅頂を受けて空海様のお弟子になられ、前述しました通り特に高岳親王様は名を真如とし、空海様の十大弟子の一人に数えられるまでになられるのでした。思えば、上皇陛下と対立して京にも入れずにいた頃が夢の様な話であります。
 同年ついに最澄様は、比叡山中道院におきまして亡くなられたのですが、その直前の降りしきる雨が寺の瓦屋根を間断なく叩く日、枕元に円仁(えんにん)様お一人が呼び寄せられ、こう仰ったのでした。
「実は御坊だけに言っておきたいことがあるのじゃ。御坊はまだ若い故、拙僧の死後初代の天台座主はお前の兄弟子の義真とするが、拙僧が真に期待しているのは円仁、御坊なのだ。それは御坊が穏やかな性格じゃが、内に秘めたものを持ち、法力も有り余るほど持っていると見込んだからに他ならん。そこで最後に御坊に密かに話すことがあるのじゃが、決して誰にも他言してはならぬぞ。」 
 円仁様は、温和なお顔を何時に無く真剣なものとしながら、こうお答えになりました。
「分りました。誰にも口外致しませんので、どうぞ遠慮無く仰って下さい。」
「良いか、円仁。次の遣唐使船には、必ず乗って入唐するのじゃ。黙って待っていてはいかん。既に前任者の藤原葛野麻呂(父)からして、既に唐に教わるべきものは何も無い、わざわざ危険を冒してまで入唐する必要があるのか、と申しておる。よって、普段からお
世話になっている和気氏を通して秦氏の力を借りるのじゃ。和気氏の中でも特に真綱と仲
世の兄弟の母は、前遣唐大使様(藤原葛野麻呂)の兄妹(きょうだい)じゃ。そして秦氏に個人的なつな
がりがあると云うかの方の子北家藤原常嗣と云う者(私のこと)がもうすぐ叙爵する。この者を動かすのじゃ。そしてこの者と共に唐へ行き、必ず本当の密教を修めて来い。拙私
の様な中途半端なものでは無くな。拙僧は高を括っていたのじゃ。わざわざ唐へ行ったのに密教を習う資格を得ただけで、後は経巻を読めばそれを会得出来ると思っていた。拙僧の半生は後悔の中にある。後で空海様にさんざん言われた通り、密教は書物で覚えるもの
(顕教)では無い。それに、庇護者である桓武天皇陛下も、拙僧に密教を期待して唐へ行
く援助をなされたのじゃ。それに対して拙僧は、わざわざ密教用の年分度者を一名認められながら、それに該当しない者を推薦してきた。桓武天皇陛下は早良親王の、平城上皇陛
下は伊予親王の怨霊を密教によって鎮めることを期待していたのじゃ。それは今の陛下(嵯峨天皇)も同じじゃ。陛下は、空海様にわざわざ早良親王の怨念うず巻く乙訓寺(おとくにでら)を任
せられ、それに対しかの僧は見事怨霊を鎮めてみせた。あの方こそ真の密教僧じゃ。正直言って、拙僧がまともに密教の修行をしても、あそこまで到達出来たかどうかは自信が無い。しかし御坊は違う。御坊なら、きちんと修行さえすれば空海様の域まで達しよう。以前、拙僧が御坊を連れて乙訓寺に空海様を尋ねた時、帰り際にかの僧と話をしていたろう。実は拙僧はあれをだいたい聞いていたのじゃ。そしていつの日か、御坊もあの泰範の様に拙僧の所を去って空海様の所へ行ってしまうのだと思って怖かった。だが、その方が良かったのかもしれん。そうすれば、きちんとした密教を習うことが出来たじゃろうからな。じゃがそれを出来ぬ様に空海様と御坊を遠ざけたのは、拙僧は御坊に嫉妬していたからなのだ。空海様から御坊が密教を習えば、空海様と結び付くのは目に見えておったからの。御坊の身体に、空海様の師、恵果様が流星となってお入りになったことは存じておる。御坊と空海様は運命の相手だったのだ。だが拙僧も、拙僧も空海様に憧れておったのじゃ。だから拙僧は、あれ以降一切空海様と御坊が逢わぬ様にしてきた。お笑い草じゃよ。振り向いてくれぬ空海様とは、自ら絶縁したと云うのにな。空海様はそれさえ気付いておるまい。徳一菩薩と紙面の上とは言えあんなに激しく争ったのは、対奈良仏教と云うこともあるが、空海様の代わりに八つ当たりしていたただけなのじゃ。」
 最澄様はここで一度苦しそうに一息付き、後は一挙に話されたのでした。
「よって御坊は、真の密教を知る機会を拙僧に潰されていたのじゃ。それなのに、御坊はこうして最期まで拙僧の元へ残ってくれた。じゃがそれももう終わりじゃ。だからこそ言うのだ、円仁、こうなったら唐へ行くしかない。空海からでなく自ら真の密教を学ぶんじゃ、そうして拙僧の亡き後の比叡山を守ってくれ。拙僧の生きている間はともかく、死んでからは比叡山では密教が出来ぬと侮られる日がきっと来よう。頼むぞ、円仁。」
「分りました。不肖円仁、御師様のご遺志を必ず実現してみせます。」
 それを聞いた最澄様は、いつも引き攣ったような笑いしか見せぬのに、久しぶりに心か
ら安堵した笑みをお浮かべになって、そのまま入定(死)されたのでした。
 その死後七日目、最澄様の念願であった比叡山延暦寺の大乗戒戒壇の設立は、弟子の光定様と北家藤原冬嗣様らによって実現したのでした。それにつけても思われるのですが、
確かに空海様と最澄様を比べれば、密教の習得と云う明らかな差があるかに思われます。しかし、最澄様の教えに対する真面目さ、潔癖さ、そして秦氏の願いとも通じる平等思想は、何ものにも代えがたいものであり、さらに後継者の質を考えると、円仁様を始めとして比叡山には多くの人物が排出するのに対し、高野山にはこれと云った僧は出て来ないのです。これは一つには空海様があまりにも偉大で、その後継者がそれと比べて誰であろうと見劣りするからかもしれませんが、確かに比叡山には最澄様の後に、素晴らしき方が数多く現れる様に思えるのでした。