一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「昨夜の宴の席で聞いたんやが、不比等さんの息子の藤原宇合さんと何やら約束をされはったとか。」
「はい、酒の席での他愛のないもので、もしも宇合様にまた男のお子様がお生まれになり、私にも娘が出来ましたら、その男の子をくれてやるというのです。」
「わてはこれが何やら河勝さんのお導きの様に思えてならんのや。もし、宇合さんにぼん(男)さんが出来、おまはんらにお嬢ちゃんが出来たなら、これはわてら一族の一縷の望となりまっしゃろう。」
「ははぁ。本当に一縷の望で御座いますね。」
三人は私がそう言うと、実に可笑しそうに大声で笑いました。普段は無口な梨花までが、心の底から笑っている様でした。この時はそれが本当に一縷の望となろうとは、三人とも思いもよらぬことだったので御座います。
「そういや朝元さん。あんさんが今日から住みなはる為に用意しておいた父弁正さんの昔の舘のことやけど。」
「何でしょうか。」
と、私がが何気なく答えると、牛麻呂様が最期に意味深げなことを仰ったのでした。
「あの舘は随分立派なんで驚きはるとは思いますけど、実は先から話の出ていた河勝さんが住んではった所何ですわ。」
「え。」
私はその時やっと、自分がここに来る前に見ていた夢の意味を悟った様な気がしたのです。不思議な事に、私がその舘に移り住んで以来、あの何度も見ていた夢をぱったりと見なくなったのでした。
第四章 唐
海(わた)若(つみ)のいづれの神を祈らばか行くさも来(く)さも船は早けむ (読み人知らず 万葉集所収)
「海若」とは、これからする物語の主人公で「遣唐使」のことで御座います。「行くさ」
「来さ」とは、唐への「往路」、日本への「帰路」と云うこと、「早けむ」とは「早いだ
ろうか」と云う疑問の言葉で御座います。なおこの歌は、仏の道を信じているはずの日本人が、実は本当に様々な神を信じる可能性があったことを示しています。この章のお話の立ち上げに際し、憚りながら私朝元が選び、ここに載せまして御座います。
さて法澄様のことがあった前年の霊亀二(西暦七一六)年、我ら秦氏から派遣された同志の下道真備(しもつみちまきび)(楊貴(やき)氏・鴨氏の遠縁。後の吉備真備(きびのまきび))様、玄ぼう法師様(弓削氏)、阿倍仲麻呂様、審祥法師様の四人は、遣唐使として難波津を出航して唐へとお渡りになられたのでした。この四人は学問も然ることながら、優れた呪術師でもあったのです。玄ぼう法師様と審祥法師様は天竺渡来の雑部密教(略して雑(ぞう)密(みつ)、後に最澄・空海が伝えたものを純密と云って区別する)の遣い手で、下道真備様と阿倍仲麻呂様は陰陽道を若くして極めておりました。陰陽道は唐で生まれた陰陽五行説を元に、唐から来た秦氏達が道鏡等を参考に創り上げたものなのです。この時は既に日本国の朝廷に、暦や天文の為の役所として陰陽寮が置かれる程となっておりました。
下道真備様と玄ぼう法師様は同い年齢(どし)で二十歳そこそこでいらっしゃり、真備様は小さめで穏やかな性格ですが、反対に玄ぼう法師様は背は高く横幅も有り、僧でありながら猛々しい性格でいらっしゃいます。また真備様は鴨氏(秦氏とは親戚)の遠縁の楊貴氏と云う氏族で、故郷の備中(現在の岡山県)の吉備で唐に渡る直前に秦氏の娘の鈿女(うねめ)様を妻とし、玄ぼう法師様は阿刀氏の出身ですが、若くして両親を亡くし、兄弟もいない天涯孤独の身の上なので僧になったのでした。そして阿倍仲麻呂様はまだ十代半ばで、ほっそりとして比較的背が高く、理知的な額の印象的な方だったのです。最後に審祥法師様は新羅の出身でいらっしゃり、半島の方らしく吊りあがった目で細面で背の高い方です。四人はいずれも秦氏の同志で、この度秦氏独自の山岳仏教を法澄様を中心にして起こすに辺り唐に留学させ、真備様には本場の陰陽道を極めて頂き、玄ぼう法師様には法相宗を学ぶと云う名目で密教呪術を身に付けさせ、阿倍仲麻呂様は前章にも登場された元正天皇陛下の密命も有って、官吏登用試験に合格して唐朝の奥深く潜入して、「金烏玉兎集」と云う陰陽道の秘書を手に入れる為、そして審祥法師様には山岳信仰の先達である華厳宗を学んで頂く為に、それぞれ秦氏より派遣されたのでした。この四人の他にも羽栗吉麻呂と云う方が、阿倍仲麻呂様の従者として共にお渡りになりました。一行は帰りもそうでしたが、極めて順調な航海の末、秋には唐の国の長江の河口に辿り着いたのです。
港には、通司舎人の父弁正(べんせい)・兄朝慶(ちょうけい)と私と私の現在の妻でこの時はまだ使用人の梨花、そして唐僧道?(どうせん)様、林邑国(現在のベトナム)僧仏哲様がお出迎えに上がっておりました。父弁正は私とは違って小柄で、長年の愛飲家の所為か、素面の時でも赤い顔をしており、兄朝慶は私と二つ違いですが、性格も容姿もまるで双子の様に私と良く似ております。ここで、下道真備様より秦下牛麻呂様からの預かり物の書物と手紙を受け取ったのです。書物の一つは「古事記(ふることぶみ)」で、もう一つは「日本書紀」、そして我らへの四人の紹介状でした。実は、他にも太秦の秦公からのこれらのものを渡さねばならぬ相手がいたのですが、そのことにつきましてはまた改めて語らせて頂きとう存じます。
この時、副使の当時馬養(うまかい)と名乗っていた宇合様が我らの集いに目を留められたのでした。
「おい、真備、何をしておる。」
真備様は急に話しかけられて驚いたのですが、副使様を無視する訳にはいかず、こう答えたのです。この時、先程言った渡すべき物は既に渡してはあったので、かの方は慌てずにこう言ったのでした。
「これは副使様、今日本にいる者から頼まれていた物を渡していた所で御座います。皆、こちらは遣唐副使の藤原馬養様だ。挨拶せよ。副使様、こちらは先程もお会いになった通司舎人の秦弁正様とそのご家族で、長男の朝慶様、次男の朝元様(私)と使用人の梨花で御座います。」
一同が深く挨拶をしていると、突然けたたましい声で髪を黒く染めた梨花が笑い出したのです。
「はっはっはっはっは。皆様名簿を見ましたか(実際は梨花自身も見ていない)、あれがあの御身分で馬を直接世話していらっしゃる馬養様ですよ。あぁおかしい。」
するとさすがの馬養様も、顔を真っ赤にして怒られたのでした。
「この女子(おなご)、何を抜かす。これは父不比等に付けて頂いた名ぞ。それを今何と申した。」
すると、周囲の者は慌てた振りをして妻梨花を押さえつけ、代表して父弁正がお詫びしたのでした。
「副使様、申し訳御座いません。この娘はまだ分別もつかぬ子ども故、御容赦下さりませ。」
「えぇいならぬ。ここが唐の地では無ければ、即刻首を刎ねてやるものを。」
「だってー、日本でならともかく、ここ唐では皆表面上はともかく、心の中では誰でも私と同じで笑っておりますよ。」
「な、何、それはまことか。」
「いえ副使様、子どもの申しますこと故、お気になさらずに。私共が何と思おうと、副史様にはお分かりにならぬことで御座いますから。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊