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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 翌年六月十九日、空海様は高野山を修禅の道場としての下賜を願い出て、七月八日にはその許可が下りたのでした。もちろん故坂上田村麻呂様との遺言通り、予め勤操(ごんぞう)法師様に話をつけておき、当地の丹生山神宮寺の二代住職となる推薦書を頂いた上で弘仁八年、高弟の泰範様や実恵様らを高野山に派遣してまず下見をさせた上で、翌年十一月その年の初雪の降る直前の良く晴れた日、空海様自身が高野山に登られたのでした。この時山の麓の道まで空海様が到着すると、白い霧の立ち込める深い太い木々の森の中から、白と黒の犬を連れた猟師らしい大男が現れました。と出会いました。見上げる様なその男は、会うなりこう言ったのです。
「空海様のし(だね)。」
「左様で御座いますが、そちらはどなた様でしょうか。」
「東漢(やまとのあや)豊田麻呂と云いよる。」
「これは失礼致しました。まずはこちらからご挨拶に伺おうと思っておりましたのに。」
 猟師風の男は顔の赤い八尺程(約二メートル六十センチ)の大男で、青い着物を着て大きな弓を持っていました。その髭だらけの顔の中にある口を大儀そうに動かしながら、
「どちらいか(どういたしまして)、田村麻呂様と勤操法師様のお二人に頼まれちゃ是も非も無か。それによお、随分前に讃岐の秦(はた)原(はら)倉下(くらじ)から、何でも真魚と云う者に一生かけても返せぬ恩を受けたから、もしその者から何かを頼まれることが有ったら、同業の好で何でも叶えるぜよ、と言われちゃぁるやん。しかも先(せん)に倉下から文(ふみ)が有って、前に話していた真魚が空海と云う名の僧になったから、くれぐれも前に頼んだことを忘れるなぜよ、と言ってきているのじょ。ほたら神宮寺とこの山全部好きに使って良いから、わてが道案内しょうら。夜明かしになってもいい様に用意もしてるさか。」
と言って、背中に荷物を一杯抱えたまま、先にどんどん歩いて行ってしまいます。空海様は、その後一年間その地で修業なされてみました。その結果弘仁十年春、七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手されたのです。右官(大工)らが作業を始める為に辺りの木を切
り倒し始めると、突然大きな声が辺りに響き渡りました。
「空海様、ちょっとこっへ来て欲しいのでおます。この木にこんな物が引っ掛かってましたんや。こりゃ何でしゃろ。」
と言って見せてくれた物は、何と唐の明(みん)州の海岸で空に放り投げた三鈷(さんこ)(密教で使用する道具の一つ)なのでした。
「やはり、この地が我が寺を建てるべき所であったか。」
と空海様は感心頻りでしたが、周りの右官達は何のことやら分らず、ぽかんとしておりました。
 そもそも寺を作ろうと思い立ったのは唐に居た頃からの念願でもありましたが、空海様の今お住みになる神護寺はあくまで和気氏の氏寺で、空海様の物では無かったからです。そしてこの地に決められたのは、前述した様に亡き田村麻呂様からのお誘いの所為もありましたが、高野山とは実は通称で、転軸山、楊柳山・摩尼山の三山八つの峰に囲まれた盆地のことを指し、まるで仏教で珍重される蓮の花の様でもあり、密教の曼陀羅の形に似てもいて、誠に縁起の良い場所だからでもありました。また、この辺り一帯に勢力を持つ豪族は丹生氏と言い、秦氏とは古くから水銀商いで付き合いのある仲間で、勤操法師様も含めた秦氏を通して丹生氏に働きかけられ、この地を空海様の道場を作ることに承知してくれたのです。また熊野の地は古くから信仰の地で修験道的な山岳信仰も盛んであり、先に述べた熊野三山も兜率天にあると云う三山に見立てられ、聖地として扱われてきたことも一つの理由だったでしょう。
 同じ頃、弘仁九(西暦八一八)年、ついに最澄様は東大寺から受けた小乗仏教の具足戒を捨て、「山家学生式(さんげがくしょうしき)」を定め、天台宗の年分度者は比叡山で大乗戒を受けて菩薩僧となり、十二年間比叡山山中で修行することを義務付けたのでした。 
 弘仁十二(西暦八二一)年、讃岐の満濃池(日本最大の農業用ため池)の改修が朝廷に誓願され、その別当に空海様が僧でありながら名指しで望まれたのでした。これは、空海様の名が既に地元から出た名士として知れ渡っていたからなのです。空海様はこの池のことを、地元でも有り、また兄の当主佐伯鈴伎(すずぎ)麿(まろ)様からも文(ふみ)で以前から良く知っておりました。と言いますのは、満濃池によって潤い、またその決壊によって被害を受けている土地は、全て佐伯のみの領地のことだったからなのです。満濃池は弘仁九年に決壊し、讃岐国の国司はこれを三年間改修工事をし続けて来たのですが、雨季になる度に雨で崩れるのを繰り返して、未だ直されていなかったのでした。
 空海様は、朝廷からの正式な使者として大仰な体裁を整えて現地に着かれました。現地では佐伯直田(さえきあたいた)公善通(ぎみよしみち)様は老齢で来られませんでしたが、代わりに空海様に良く似た実兄の鈴伎麿様が出迎えられたのでした。鈴伎麿様は、年を取ってますます空海様と似てこられています。出迎えの人々の中にはその他、懐かしい秦(はた)原(はら)倉下(くらじ)様、成人した子供連れの秦隼麻呂夫妻の顔も見られました。
 思えば、一昔前あの故行基大僧正様が、こうした社会事業をやる為に官僧の地位を捨てなさった事を思えば、隔世の感を禁じ得ません。今や朝廷の依頼で堂々と土木事業の指揮をする事が出来る様になったのでした。空海様はこの様な社会事業をこの後幾つも為される事となるのです。
「空海様、良っくいらして下さったぜよ。長旅御苦労様に御座いましたが。皆、首を長くして待っていたがぜよ。」
と、まずは兄の鈴伎麿様から声を掛けられてきたのです。これに対し空海様はこう答えたのでした。
「鈴伎麿兄上、お待たせしました。それから秦原倉下様、高野山の件では東漢(やまとのあや)豊田麻呂様にお口添え頂き、誠に有難う御座いました。」
 この空海様に言葉に対し、秦原倉下様は満面の笑みを浮かべながらこう答えたのでした。
「空海様、ほんに久しぶりぜよ。何、菅女(すがめ)の受けた恩に比べれば、あんなこと造作も無いことがぜよ。」
 すると讃岐に帰らされていた隼麻呂も、待ち兼ねた様に口を挟んだのでした。
「真魚様、いや空海様、お久しぶりで御座います。御立派になって帰ってらして、隼麻呂も待っていた甲斐が御座いました。わしも今やこの地に根を下ろし、丹生の里(水銀鉱山)で差配等しておりましたが、当分はそちらはお休みにしてこちらを手伝わして頂きます。何としてもこの堤を完成させましょうぞ。」
「隼麻呂、久しいの。それに年を取った。だがここは多度都の、いや讃岐の民の為力を貸
してくれ。それはそうと、何時も肩に乗っていた鶻(こつ)(隼)はどうした?」
「あの後『黒駒』が死に、その子もおりませんでしたので、これを機会に鷹飼(たかかい)はやめました。」
 彼らとそれぞれ挨拶した後空海様は、工事の作業をしている者誰からも良く見える岩の上に祭壇を作って厳かに祈祷を始め、それが終わると皆の方に向かって立ち上がり、五万人もの人々が見守る中こう叫んだのでした。