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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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 弘仁六(西暦八一五)年、和気真綱(小黒麻呂の娘の子・和気広世の弟)様の要請で最澄様は大安寺で講演を行い、講演を聞きに来た学僧との間に論争を行なったのでした。これは、いわゆる仮想空海様の考えに対する論争でもあり、この後、弟子の円仁様らを伴って関東へ天台宗の布教活動を行ったことによって、一つの火種を落としていった様に思われます。それは、会津の法相宗徳一(とくいつ)菩薩のことでありました。徳一菩薩は、この時期空海様から布教の為の密教経典の書写をお願いされましたが、それに対する返答として「真言未決文」と云う密教批判を空海様に送り返したのです。空海様はこれを黙殺されて返事を書かなかったのですが、空海様にしてみれば、自分は真言密教至上主義であり、言葉でどうこう言うこと(顕教(けんぎょう))を空しくお思いだったのかもしれません。それは、空海様の様な域に達した者だけが体得し得る境地なのでしょう。しかし、徳一菩薩の敵意は一人よがりのものと終わったことにより、別にお二人は対決と云う形にはならず、それが最澄様には、徳一菩薩が空海様側であるかの様な印象をお与えになったのかもしれません。それは徳一菩薩個人がどうこうでは無く、奈良仏教と言われる仏教勢力を敵視してきた最澄様にとって、それらの代表として徳一菩薩しいては空海様、と最澄様は捉えてしまったのでしょう。
 また一方徳一菩薩にしてみれば、台密と後に呼ばれる比叡山の布教も真言密教と同じ密教であり、最澄様の布教活動は火に油を注ぐ様なものでありました。因みに徳一菩薩は、藤原刷雄様の同母の弟で南家藤原仲麻呂の息子であります。恵美押勝の乱の直前の子で、十一男と伝えられています。もちろん父の顔も知りませんが、剃髪を除いたその容姿は故押勝に生き写しでした。ですから、奈良仏教と東大寺には特別な思い入れもあり、自身もかつて東大寺に所属していたのです。最澄様の目論見は、東大寺を始めとする鑑真和上様の小乗戒の戒壇院(正式な僧であることを認可する権利)の独占に対し、比叡山に設けた六所宝塔院で大乗戒壇を認めてもらって、天台宗の僧である資格を認可する権利を得ようと云うものでしたから、奈良仏教派からは反発をされていたのでした。また、空海様は東大寺別当も兼務しておりましたから、徳一菩薩様を空海様と余計同一視されたのかもしれません。
 そもそも最澄様と徳一菩薩の論争の始まりは、弘仁八(西暦八一三)年以前に徳一菩薩の著した「仏性抄」と云う書物における、最澄様の一乗・法華経に対する批判に対し、最澄様の著した「照権実鏡」による反論からでありました。お互いが顔を突き合わせての論争では無かったので、極めて時間の懸かるものでしたが、両者は極めて大真面目でありました。ここで言う最澄様の「一乗」とは法華経に基づく考えであり、どの様な人も最終的には悟りを開けると云う考え方で、それに対し徳一菩薩は、個人の考えと云うより法相宗全体の考えを代表して「三乗」論を唱えたのです。「三乗」とは、成仏の可能性のある人とそうでない人を分けて考えるもので、両者の考えは真っ向から対立し、論争の為の書物は徳一菩薩側が九種四八巻に及び、最澄様側は六種十八巻に上ったのでした。 
 この論争は最澄様の死の直前まで続き、決着のつかぬまま終わったのですが、最澄様の主張した理想主義的平等思想は、いつの間にかかの秦氏の思想を受け継いだもので、ずっと後押しを陰ながらしてきた秦氏にとっては、援助の甲斐があったというものだったと思われます。お互いを書物の中で悪し様に云う激しい論争の決着は付きませんでしたが、天台宗にはその後多くの優秀な弟子が出て栄えるのに対し、法相宗の方にはこれと云った人物も現れずに衰勢していく事実一つを取ってみても、どちらが正しいと人々が思っていたかは明らかだったと思われます。
 考えてみれば、徳一菩薩の父上の恵美押勝を武力制圧した時のことと比べれば、いく
ら激しいと言っても言葉の上だけの争いに終始していて、誠に平和なものだったのかもしれません。徳一菩薩も、父親があの様な悲惨な目に合ったことによる反骨精神があったかもしれませんが、言ってみればただそれだけのことなのです。二人ともやり方に相反す
るものがあったとしても、人がどの様に生きるれば幸せになれるのか、追求していたことは同じなのでした。つまりここで、仮に空海様と最澄様の対立の構図が成立したのだとしても、極めて平和な物であったと云うことなのです。これまでの様な血を見る争いに等ならなかったのでした。
 ただこの論争の中で最澄様が、らしくない激高振りをお見せになるのは、ちょうどこの時、最愛の弟子泰範様が空海様に取られ、その空海様とも決別していたこととも無関係では無かったろうと思われます。
 その同じ弘仁六(西暦八一五)年は、空海様がついに真言密教流布の為動き出した年でもありました。それは、日本にあまたある宗派を全て真言密教で一つにまとめてしまおうと云う大胆のもので、まことに秦氏の悲願にも適うものだったのです。その為にまず、他宗派の会津の徳一菩薩様(前述した通りの結果になりましたが)、下野(しもつけ)の広智禅師様、基徳菩薩様らの東国の有力僧侶に働きかけ、密教経典の書写を依頼されたのでした。また同時に、かつてお住まいになっていた西国筑紫へも勧進を行なったのです。(この時期の活動と修行時の各地への遍歴、あるいは死後の弟子達の事績が相俟って、修験道の山々と空海との様々が伝説が生まれる。まず越前の白山や石銅山に空海縁の弘法池があり、武蔵国の高尾山薬王院は行基開山であると共に空海が巡錫したと伝わる。相模国の大山は良弁開基と空海が住職を務めたことがあると云う伝説が残り、箱根山には弘法山があると同時に湯河原は、空海が開拓した時温泉を掘り当てたと云う。大和国の葛城山には子育て地蔵が有り、空海が供養した地蔵の御利益で、子が授かったと言われており、大峯山には空海が修行したと云う伝説がある。紀伊国の熊野三山は高野山も近く、空海がここに詣でたと言われている。近江の比良山は良弁開山と言われ、ここに住む天狗次郎坊は、最澄に比叡山を追い出されたと云う。また、山背の愛宕山の天狗太郎坊は空海の直弟子真斉の化身とされ、鞍馬山僧正坊と云う天狗はやはり空海の直弟子で元高岳親王の真如の化身と言われている。讃岐の尾野瀬山の尾背寺はの薬師如来は空海御策と云う。豊後の国東半島の両子山(ふたごやま)は空海も入山したとされ、薩摩の韓国岳は真言信徒が多く、後世弘法大師像を作った。因みにこうした空海の旅が、やがて四国遍路の元となる)。