一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「はい、空海様の御存知の勤操律師のお話を、かの僧が師の所に訪れた時に聞いた事があるので御座いますが、あの方が故行基様の菩薩行を受け継ぎ、文殊会(もんじゅえ)を催し、官僧も含めて貧者救済を国家的な行事としたい、と云う理想に感激したのです。拙僧も微力ながら、律師の御役に立ちたいと常々思っている次第なので、文殊は文殊でも密教修法の八字法を持ち帰りたい、等と夢の様な話をした次第。おや空海様、何故泣いてらっしゃるのですか。」
「いや、これは汗が目に入ったのじゃ。今日も暑いのう。」
と夏でも無いのにおかしな言い訳を言っている所に最澄様がお戻りになりましたが、実はもう随分前に戻っていて、二人の会話は殆ど聞かれていたのでした。『恵果様、何故私では無くて円仁なのだ。何故円仁の中に、恵果様はお入りになったのだ。許せぬ。円仁と空海様を二度と会わすものか。』と最澄様は心密かに呟き、まるでたった今来た様に、
「失礼致しました。」
とお二人に声を掛けられたかと思うと、空海様に別れの挨拶をして、円仁様を連れてそそくさと部屋を辞したのでした。
二人が出て行った後、もういない円仁様に向かって空海様はこう仰っておりました。
「円仁様、最澄様をお頼み申しましたぞ。」
薬子の乱のその後始末もすっかり終わり、弘仁六(西暦八一五)年十一月十五日、空海様は高尾山寺におきまして金剛界結縁潅頂を行い、さらに十二月十四日胎蔵界潅頂も開き、最澄様始めその高弟の円澄様、光定様、泰(たい)範(はん)様、僧以外では、和気広世様は亡くなられたので代わりに弟の真綱様、そのまた弟の仲世様等百九十名がそれに参加されました。真綱・仲世兄弟は亡き小黒麻呂様の娘の子でありながら、広世様とは違って最澄様より空海様贔屓なのです。その証拠に、高尾山寺の名をこの機会に空海様の好きな様に変えて欲しいと申し出たのでした。そこで空海様は陛下から自分への要請に鑑み、寺の名を神護国祚(こくそ)寺、通称神護寺とされたのです。またこの寺での密教潅頂は、三段階の内初歩に当たる結縁(けちえん)潅頂に過ぎず、密教と云う学問の入学式の様なもので、まだ何も授けている訳では無かったのです。いくら寺の所有者とは云え、出家していない和気兄弟等が参加しているのはその所為なのでした。胎蔵界潅頂に至っては、最澄師弟はもちろんのこと、奈良の高僧や沙弥(しゃみ)(正式な受戒を受けていない学僧)や一般の官吏や童子まで含まれていたのでした。屈辱的にも最澄様の様な高僧が、得度されて無い方と同等に扱われたのです。因みに唐における胎蔵界曼荼羅において、空海様が二度投花得仏を行っても、いずれも曼荼羅の中の大日如来様の所に落ちたことを覚えておられるでしょうか。この時最澄様の投げた花が落ちたのは、阿弥陀如来様の脇侍の一人に過ぎない「金剛因菩薩」様でありました。しかしこの金剛院菩薩様こそ、最澄様には知らされてはいませんが、かの僧の生まれ変わった姿であると同時に、今は亡き泰澄大和尚様の生まれ変わった姿でもあることは、かの僧が得度した時、亡き行表住職によって既に明らかにされていたことなのです。
最澄様はこの様な扱いにもめげず、自らの高弟達を空海様の所に弟子入りさせて密教を会得しようとなされたのですが、一応の成果を得た頃に召喚しても、泰範様だけが神護寺に残って比叡山に帰って来なかったのでした。泰範様は、当時最澄様がご自分の後継者にと思われていた方でしたが、最澄様が経典の借用をする度に空海様の元へ行っている内に、最澄様の所にいるよりも、空海様の弟子になった方が正しい密教を学べるのではないかと思い始め、この機会に完全に空海様のお弟子になってしまわれたのです。泰範様を通して秦氏は比叡山に金銭的援助もしておりましたので、最澄様はこれを空海様による引き抜きと考え、空海様のことをこの時から積り積もった鬱憤と共に深く恨む様になってしまわれたのでした。また泰範様は眉が太く、四角く長い顔をしていて、最澄様に良く似て生真面目な青年僧です。ですから師匠を乗り換えるに辺り、最澄様に何と言えば良いか分らぬと空海様に相談されると、何と、空海様が泰範様の名で師を変えることを最澄様に文(ふみ)で通達されてしまったのでした。この文は微妙に筆跡などを変えてありましたが、空海様と何度も書簡の交換をしている最澄様には、すぐにそれが空海様の書いたものであることが分ってしまい、最澄様の怒りは泰範様にではなく空海様に全て向けられることとなってしまうのです。裏を返せば、それ程泰範様を空海様が必要となさっていたとも言えるでしょう。
さらにこの恨みは、次の出来ごとによって決定的なものとなってしまいました。それは同じ年の十一月、例によって最澄様が空海様所有の理趣釈経(理趣経の注釈書)の借用を申し込まれた時、
「この本をお貸ししても、密教のことを分った様な気になってもらっては困る、もし密教を真に会得したいなら、私の所に直接指導を受けに来なさい。ただし、それには最低三年の月日が必要となるがな。」
と空海様が断られたことがあったのです。もっとも空海様も、自分の持ってきた書の全てを写せば、それで密教を会得出来る積りでいる最澄様の目論見を牽制されたのでもありました。第一、今日借用を申し出られたのは、あの曰く付きの理趣経注釈書なのです。この経をただ注釈書を読むだけで理解し会得しよう等と云うのは、情欲の克服にあれ程苦労された空海様にとって耐え難いものなのでした。また最澄様にしてみれば、空海様が唐でたった三カ月で会得した密教を、何で自分が三年も掛けなければならないのか、納得がいかなかったのです。二人の交流は、これ以降一切行われませんでした。空海様と最澄様、これまではお二人自身と言うよりは、泰信大僧都の様に周りの者がお二人を利用して対決してきたのですが、ついにここにきて、あくまで直接顔を合わせることの無い間接的な争いではありますが、お二人自身の対決へとなっていったのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊