小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一縷の望(秦氏遣唐使物語)

INDEX|115ページ/127ページ|

次のページ前のページ
 

 その翌年の弘仁二(八一一)年十月、陛下(嵯峨天皇)より、と言うよりは例によって浜刀自女様の薦めにより勅命が下って、空海様は乙訓寺の住職になられたのでした。高尾山寺をしばらく留守にするに当たり、寺に三綱と云う組織を作り、杲林(ごうりん)様・実恵様・智泉様にその職を当てたのです。またこの時期、真賀様(空海の弟)・真済(しんぜい)様・真如(しんにょ)(平城(へいぜい)天皇の子、廃太子高岳親王)など有能な弟子が次々と入ったのでした。
 そもそも空海様が移った乙訓寺は早良親王が幽閉されていた所で、その怨念の中心の一つと考えられ、修復されることも無く当時荒れ放題に荒れ果てておりました。この寺の在る場所は捨てられた旧都である長岡でしたから、余計荒廃が進んだのやもしれません。陛下は何も仰いませんでしたが、要するに空海様にこの怨霊を何とかして欲しいと云うご内意なのでしょう。実はこれは亡き陰陽頭南家藤原刷雄様と式家種継様の従弟菅継様の二十年前から遺言で、当時から秦氏では有名であった空海様なら、必ず早良親王の怨霊を払えるだろうから、是非ともその者に依頼すべしというものなのでした。ただ当時空海様は全くの無名でしたから、この二人の遺言は黙殺されていたのです。こここにきて陛下も浜刀自女様のお陰で空海様を知ることとなり、この遺言のことが蒸し返されて、突然の指名となったのでした。空海様は何も言わずお弟子と共にここに移り住み、移ったその夜、所々穴のあいた所から月明りの洩れる本堂で、
「死霊を切りて放てよ梓弓(あずさゆみ)、引き取り給え経(きょう)の文字。」
と死霊成仏の呪歌を誦していると、早速早良親王の亡霊が祈っている空海様の背後に現れたのでした。空海様は祈ったまま振り返りもせず、こう仰ったのです。
「崇道天皇(早良親王)陛下、良くいらっしゃいました。」
「ほう、分るのか。それにしても僧とは久しぶりじゃの。もう鎮魂の儀式も飽きたらしく、しばらく誰も寄り付かなかったのに。」
「陛下、桓武天皇陛下も亡くなりました。その子も譲位して上皇とお成りになりました。煽っていた不破内親王や薬子もこの世を去ったのです。無実の罪も明らかとなり、名誉も回復され、崇道天皇の諡号を送られ、御遺骨も淡路から御陵へと移されました。ここにいらっしゃるのは、実体の無い恨みの念だけで御座いましょう。もうこの辺で宜しいのでは無いですか。私が、この地の為に御祈り致しましょう。」
「そうか、そうだな。私はもう何も出来ぬ影に過ぎぬ。誰かがここに来て、そう言ってくれるのを待っていた様な気がするのじゃ。ありがとう見知らぬ御坊。これでやっと消えることが出来る。」
「早速のお聞き届け、有難き事に存じます。考えてみれば、陛下の様にお成りになられた(怨霊のこと)長良親王様、藤原広嗣様、伊予親王様達は皆、生真面目で正義感が強く有能な方達ばかりで御座いました。だからこそ抗しえぬ力によって儚くならざるを得なかった時、ご自分の運命を認めることがお出来にならなかったので御座いましょう。この空海、陛下の悲しみが痛い程分りまする。」
と空海様が言うと、早良親王の霊はにっこりと微笑まれ、すっと消えたのでありました。
空海様はそのまま一年その寺に留まり、早良親王の菩提を弔い、荒れ果てた寺の修復を行なったのです。こう云った相手を倒すのではなく、対立の構造を無くすことこそ、最も大切なものなのです。そこにこそ、秦氏館の対立の構造を無くすことは元より、全ての争いの種を無くす元が有るのではないでしょうか。
 さて話は少し戻って薬子の乱の頃、最澄様は自らを「下僧」「弟子最澄」「永世弟子最澄」等と文(ふみ)に署名して謙(へりくだ)り、再三再四空海様の比叡山へのお越しを書面で願って密教指導を直接受けようとなさっていましたが、空海様は前章で語りました通り非常に多忙でしたので、これを丁重にお断りしておりました。最澄様は多忙であるからと云う理由が空海様の言い訳に過ぎなく思い、ついに我慢できなくなってしまわれたのです。その結果秋晴れの爽やかな空の下、若い僧を一人連れて自ら足を運び、空海様の当時いた乙訓寺へ直接お越しになってしまったのでした。当時空海様は乙訓寺の後片付けも終わり、後二日で高尾山寺に戻る所だったのです。最澄様は、引っ越しに忙しいその乙訓寺を訪れたのでした。久しぶりに最澄様の見た空海様は、様々な経験を積んで自信に満ち溢れ、年上の最澄様から見ても凛々しく魅力的で、忘れかけていた胸の高鳴りを静めることがどうしても出来無かったのです。空海様は、その多忙な真の理由と密教を真に会得することは時間が掛かることを説明して最澄様に納得してもらい、引き揚げてもらうこととしたのですが、その時連れていた円仁(えんにん)と云う若い僧が、最澄様とのお話の間中も気になって仕方ありませんでした。最澄様が憚り(便所)を借りて席を外している間、空海様は急いで従者のその若い僧に話し掛けたのです。その僧は温和そうな顔をして、眉の太い逞しい感じの僧でした。
「円仁様、つかぬことをお伺いしますが、御坊は依然口の中に流星が入った経験は御座いませんかな。」
と空海様が咳込んでお聞きになると、若い円仁様は怪訝そうな顔をなさいました。空海様は慌てて、
「いや突然おかしなことを聞かれたとお思いでしょう。この事は忘れて下され。」
と言われましたが、円仁様はやはり慌てて、こう仰ったのです。
「いえ、どうしてそのことをご存知なのですか。あれは延暦二四(八〇五)年、まだ私が十歳程のことで御座います。大慈寺で夜中に一人寺の外で禅を組んでおりましたら、突然辺りが明るくなって流星が飛んできて、逃げる間もなく口の中にそれが入ってしまったので御座います。誰も見ていなかったことなので、言っても信じてもらえぬと思い、師である広智和尚様にも黙っておりましたのに、どうしてご存知なのですか。やはり空海様は、人の心の中もお見通しなのですね。」
 空海様はそれを聞きながら、思わず涙が溢れ出るのを押さえられませんでした。『そうか、恵果和尚様はお約束通りこんな所に生まれ変わりなさったのか。しかし、広智和尚様は道忠法師様の弟子だが、その道忠法師様は故鑑真和上様のお弟子で、奈良仏教には批判的だ。それで最澄様に好意を持っておられる。最澄の弟子となるのも頷ける。これを引き抜く訳にはいかぬだろう。縁もここまでか。』と空海様が心の中で思っていらっしゃいましたが、最澄様に少しでも不満があるなら、まだ望みはあるかもしれないと、思わずこう聞いてしまいました。
「円仁様、師である最澄様はいかがですか。」
といらぬことを口に出してしまわれたのです。しかし、円仁様の真っ直ぐな瞳には迷いは有りませんでした。
「はい、良いお師様で御座いますが、密教を唐でしっかり習って来なかったことを今でもお悔やみです。私の思う所、今のやり方では真の密教を会得するのはご無理でしょう。私が一人前になったら出来れば唐に行き、御師様の心残りを晴らしとう存じます。それとその時、『文殊八字法』を持ち帰りたく存じます。」
「ほう、密教修法の文殊八字法を? それは御奇特な。ところで特にその経を御望みとは、一体どういう事なので御座いますか。」