一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「実はな。以前わしは、御坊と同じ蝦夷の者と知り合ったことがあってな。その者はわしのことを信頼してくれたのに、わしはその者の命を助けることが出来なんだ。その者がわしの為に処刑される時、その者は少しもわしへの恨みごとを言わず、ただこう頼んで逝ったのじゃ。『渡来した者も含めて同じ日本さ住む者誰もが等しく平和に暮らせる世どこ(を)、いつかこの日本さ創ってけれ。』とな。だがわしにはもうその願いを叶えるだけの時間も無いし、例え時間が有ってもどうしたらそんな世が作れるのか見当も付かぬ。そこでだ。蝦夷と同じ血の流れると云う御坊に、その願いを託したい。空海、その為にもどうか良い寺を作って下され。これでやっと秦氏への恩が返すことが出来、この世に何の未練も無くなり申した。わしは死しても鬼神となって、そなたの寺を護ろうぞ。」
そう言って五月二三日、稀代の大将軍は静かにこの世を去ったのでした。その死後、未亡人の高子様の手によって、かつて故桓武天皇より蝦夷討伐の功で頂いた豪華な本宅を清水寺に寄進する為に移築されたのです。それは正しく、賢心改め延鎮様との在りし日の約束を果されたこととなるのでした。
薬子の変の後始末は、まず上皇陛下はそのまま奈良に留まることとし、身分もお構いな
しとされるのです。また上皇陛下が世に出された「万葉集」は、嵯峨帝の元でも高く評価され、嵯峨陛下はそれどころか、この和歌集を自ら書写して、その不朽に務められたのでした。その内容が、貴賎や老若男女を問わず、国中が和歌の心で一つとなるものだったからだと思われます。この万葉集が無ければ、後に続く古今和歌集なども無かったと言えるのでした。
また上皇陛下の皇太子高岳(たかおか)親王様は廃太子され、代わって陛下の弟君の大伴親王様(後の淳和天皇)が皇太子に立てられたのでした。我が父藤原葛野麻呂への処分については厳しい意見も有ったのですが、穏やかな性格の父の友人は多く、特に陛下の側近の一人の参議多入鹿(おおのいるか)様がこう言って減刑を求めたのです。
「確かに葛野麻呂は、同族でありながら薬子と情を通じておりました。またその薬子は上皇陛下の寵愛も受けていたのですから、不道徳極りないことは確かです。しかし私の聞き及びます所、薬子の乱、東国を逃れようとする上皇陛下と薬子様を、葛野麻呂はお止めしようとしたそうなのです。不道徳なことは反省すべきことでは有りますが、公に罰すべき問題でもありませんから、どうか葛野麻呂の人柄も踏まえ、穏便なる処置を願い奉ります。」
この献言が聞き入れられ、父葛野麻呂へのお咎めは特に無かったのですが、その後の短い人生ではこれ以上の出世はままならず、同じ北家でも秦氏とは関係のない藤原冬嗣様の系列が繁栄するのでした。弘仁九(西暦八一八)年、そんな父が身罷り、それを契機にして私常嗣は世に出、弘仁十四年に叙爵され、天長八(八三一)年従四位下、さらに参議となり、承和元(八三四)年、父の後を継いで最期の遣唐大使となったのであります。成人した私はどことなく父葛野麻呂を彷彿とさせる顔立ちではありましたが、特に見目麗しいと云う程でも無く、学問も良くもかと言って不勉強だった訳でも無く、武芸は故藤原宇合様の様に達者ではありませんでしたが、身体を動かすことが嫌いなのでは無く、故秦朝元様の様に和歌が不得手と云うのでも有りませんでしたが、決して歌の名人と云う訳でも無く、中肉中背で特にこれといった特徴も無く、ただただ大きな失敗も無く、敵も作らず、親の地位のお蔭でそこまでの地位に上り詰めた、この物語の個性溢れる他の方達とは違って、至って平凡な一人の貴族の男に過ぎませんでした。
故坂上田村麻呂将軍の霊を地主神社に祀った時に見た桜の美しさが忘れられず、陛下(嵯峨天皇)は弘仁三(八一二)年二月十二日、御所の神泉苑にて桜の花見を盛大に催されたのです。これは無論、全ての事が片付いた(特に後述する乙訓寺(おとくにでら)の早良親王の怨霊が空海の手によって鎮められたこと)を祝っての宴でありました。参加したのは主催した陛下はもちろんのこと、空海様や乳母の太秦浜刀自女(うずまさのはまとじめ)様、参議となられた北家藤原冬嗣様、蝦夷討伐を控えて征夷将軍となられた文室綿麻呂様、藤原葛野麻呂様の減刑を提案された参議多入鹿様、南家中納言藤原三守(ただもり)様他の皆様が勢揃いし、初春の花を愛で、浄(すみ)酒(さけ)を飲んで満面の笑みをこぼされたのです。これ以降、宮中では桜を愛でるのが恒例行事とされ、花見の起源となるのでした。
こうして太平の世が訪れ、これまで血塗られた歴史を繰り返してきた日本と秦氏は、この時(薬子の乱の終結)から嵯峨陛下が崩御するまでの三十二年間と云う短い間ですが、争いの無い平和の世の中となるのです。これは、嵯峨天皇と云う転輪聖王と空海様と云う仏陀が協力し合い、作り上げたものなのでした。考えてみれば、秦氏がその総力を挙げて担ぎ上げた桓武天皇の御代は中途半端な成果しか得られず、期待されていなかった嵯峨天皇と云う方が成功されたのは、たった一人の女性太秦浜刀自女様と云う乳母の尽力のお陰かと思われます。かの女性は、秦氏の方々が全勢力を挙げて為し得ず諦めてしまったことをただ一人望みを捨てず、ただひたすら嵯峨天皇を転輪聖王として育て上げることに心血を注ぎ、成し遂げられたと言えるのです。また、空海様が平和を成し遂げられた工夫を、以下に詳しく見ていきましょう。
第十章 最澄と空海
人多き人の中にも人ぞなき人になれ人人になせ人 (弘法大師作 松翁道話所収)
弘法大師とは空海様の死後の呼び名ですが、ここではあえて使わせて頂きました。歌意は書く必要が無い程平易な歌で、この章と言うよりは、この話全体にふさわしき歌かと存じます。
話は元の時間に戻って弘仁元(八一〇)年薬子の変がようやく治まった十月のとある秋晴れの日、最澄様は世の中もようやく落ち着いたので弟子達と共に比叡の山を降り、最澄様の広めている天台の教えと秦氏に縁がある難波の四天王寺へと参拝したのでした。この時かの僧は本堂に参拝した後、聖徳太子廟を訪れたのです。それは天台宗の開祖慧思(えし)大師の生まれ代わりが、他ならぬ聖徳太子だったからなのでした。最澄様はその時、幼い頃叔父の藤原小黒麻呂様から聖徳太子様の偉さについて教えられたことを思い出し、その縁の深さを改めて感慨深く思われたのです。
「考えてみれば、私の原点は上宮太師様(聖徳太子の事)にあったのだな。言うならば、私は太師様の代わりに、この国で慧思大師の教えを広めている訳なのだから、太子様をお慕いする気持ちが一層強まろうと云うものだろう。」
最澄様はこの時、その思いを一つの漢詩に託されて詠まれたのでした。その話が自然に広まり、いつのまにかかの僧は聖徳太子の生まれ代わりである、と噂される様になれたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊