一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「愛しい愛しい田村麻呂様、お久しゅう御座います。鈴鹿で御座います。この文を貴方様がお読みと云うことは、もはや私はこの世に亡き者と思われます。そしてまず、私の本当の名を告げておかなくてはなりません。その名は喜娘と申し、太秦宅守(うずまさやかもり)様に拾われ、秦氏の血の流れる藤原種継様の妻で御座りました。種継様があの様な悲劇に見舞われ、生きる屍となっておりました時、やはり秦氏の流れの藤原小黒麻呂様に依頼された宅守様から次の様な任務を持ち掛けられたのです。それは、田村麻呂様の女となって蝦夷征伐に同行し、阿弖流為(あてるい)様を滅ぼすのに手を貸せ、と云うものでした。宅守様は塞ぎ込む私の悲しみを紛らわす為、この任務を与えたのです。私はそれを察してこの任務を引き受けたのでした。そして亡くなられた行叡居士様もまた秦氏の方で、やはり小黒麻呂様に依頼されたのです。考えてみれば田村麻呂様の蝦夷討伐は、秦氏の方々の支援の元なされたと言っても過言ではありませんでした。最初貴方様に近づきましたのは、この任務の為なので御座います。しかし田村麻呂様に愛を頂き、共に戦場を駆け回っている間に、いつしか貴方様は私にとってかけがいの無い方となっていたのでした。ですが私のそんな想いとは裏腹に、阿弖流為様が死んで私の任務が終わった時点で、私は貴方様の傍から離れなくてはならなかったのです。しかし、貴方様のことを忘れたことは一時とて御座いません。この様な形でしか貴方様と再会出来なかったことを、鈴鹿は悲しゅう思います。お察しとは存じますが、薬子は我が実の娘で御座います。薬子があの様な不始末を起こしてしまったのも、あの娘が幼い頃から私が一族の名を現世で高めることを吹きこんできたことと、実の娘の夫(平城天皇)と関係を持ってしまったことによる絶望からで、考えてみればあの娘も哀れな境遇なので御座いました。
ところで私の喜娘と云う本名も、実は仮名で御座います。本当に本当の名は、唐の楊貴妃様の実の娘、小真と申します。あの娘はその孫と云うことになります。あの娘があんな人様に顔向け出来ぬ所業に及んでしまったのも、その血の所為かとも思えてなりません。ですから、その罪は私の死を以って償うより他に無いのです。私の目論見通り事が進めば、今頃はあの娘の命も無いことでしょう。その時私がわざわざ手間の掛かる方法を使っていることに疑問の念を持つかも知れませんが、それはあの娘が大人しく自害したと見せかける為に他なりません。もしも我ら親子を少しでも哀れとお思い下されたら、薬子の遺体は藤原葛野麻呂様に渡し、私の亡き骸は、私が二度目に漂流して辿り着いた長門国(ながとのくに)の油谷(あぶらたに)の港のどこかに葬り下さい。海に投げ込んでも構いませぬ。私はあの地で宅守様に拾われ、あの方が種継様や貴方様を紹介して下さったのですから。それに、私の故郷である唐にも近う御座います。そして貴方様にとって秦氏の方々の行動を少しでも恩義に感じますれば、どうかこの事を忘れず、いつかそれを返す機会をお探し下さい。どうかお願い致します。」
田村麻呂様は職権を使い、鈴鹿御前(喜娘)様の遺言を果たす為、仲成様と薬子様の遺体を引き取り、泰信大僧都に命じて秦部の方が協力して初瀬川の河原で鈴鹿御前様と共に荼毘に付しました。そして仲成様と薬子様の遺骨は葛野麻呂様に委ね、葛野麻呂様は夫である式家藤原縄主(ただぬし)様(都に呼び戻され、兵部卿となる)にそれを渡し、縄主様はそれを密かに藤原種継様の眠る墓に埋葬し、娘の式子様他四人のお子様達とで秦信大僧都にその菩提を弔らわせたのです。一目を忍んで夜葬ったののですが、夏の終わりで墓の周りに群がっていた蛍が、近くまで来るとぱっと美しく散っていきました。昔からの言い伝えで、蛍は死者の魂だとか申しますから、仲成様・薬子様兄妹の遺骨を葬りに来た人々には、まるで二人の魂を薬子の為に個人的に命を落とした秦忌寸の若者達の魂が迎えに来た様に思われたそうです。
そして鈴鹿御前様の遺骨の入った須恵器の小さな壺は、田村麻呂様が持って長門国の油谷の港へ行き、誰を埋葬し、自分が誰かも告げずに墓を作って立ち去ったのでした。こうして喜娘様の遺言を全て果たし、薬子の変の翌年(弘仁二年)田村麻呂様は静かに亡くなられたのです。
お話は元の時間に戻りますが、田村麻呂様が喜娘様からの文(ふみ)を読んでいる間、その横で綿麻呂様が泰信大僧都を縛り上げていたのでした。この後、綿麻呂様は式家藤原緒嗣様の後を継いで陸奥出羽按擦使となり、さらにその後征夷将軍となって、田村麻呂様の志を継いで陸奥へ赴かれるのです。
一方空海様は、皆に黙ってその場を立ち去ったのでした。実は空海様は、調伏の祈祷の最中に京の高尾山寺を抜け出して来ていたのです。空海様が馬に乗って夜遅く帰って来られると、門の前に永真様や弟子の実恵様が待っていらっしゃり、空海様を見つけるや永真様が大声で叫んだのでした。
「空海様、祈祷の途中でどちらに行っておられたのですか?」
「いや何、もう薬子の件は解決致しましたぞ。」
「はあ?」
「陛下には宜しく伝えおいて下され。拙僧はもう寝る。さすがに疲れました。」
そう言って空海様は黙って首を横に振られる永真様を門に残し、寺の中へと消えたのでした。こうして秦氏同士の争いは、空海様側の大勝利に終わったのですが、秦氏の内部抗争の構図は、これで終わった訳ではありません。両者の歩み寄りこそ、争いを無くす為に不可欠なのです。
後日田村麻呂様からこの時の助勢に対する礼状が空海様に届き、かの方が逝去するまでの短い間ではありましたが、共に陛下に気に入られているお二人は顔を合わせる機会も多く、親密に付き合いをすることとなるのでした。翌年の田村麻呂様の臨終の時には特に山城国の粟田の別宅にまで呼ばれ、こんなお話があったそうなのです。
「空海、聞く所によると、御坊は自らの寺を建立したいと常々申しておるそうじゃな。」
「はい、何やら有名になりました様で、お恥ずかしい限りです。」
「ところで、紀伊国の丹生山神宮寺の勤操(ごんぞう)住職と御坊は旧知であるそうな。」
「勤操法師様をご存知なのですか?」
「ああ、あの辺りの山など御坊の寺にどうであろう。」
「どういうことなのですか?」
「あの辺りは我ら東漢(やまとのあや)氏の領地が多くてな。残りの所は勤操法師の秦氏と親しい丹生氏のものなのだ。それにわしはあの地の丹生氏を治める東漢豊田麻呂から近頃文(ふみ)を貰ってのう。水銀(みずかね)鉱山仲間の秦原倉下(はたはらくらじ)と云う者に聞いた所、秦氏の者は空海と云う密教僧を損得無しで支援しているから、どうか心に留めておいて欲しいと言われたんだそうだ。わしも秦氏の者にはいささか恩があっての。お主には個人的に恩も有ることだし、そこで推薦書を認(したた)めておいたから、勤操には御坊から話をつけて、共に御坊を神宮寺の二代目住職として推挙しようと思う。さらにその推薦書の中で、あの地に御坊自身の建立する寺も作れるように付け加えておこう。その代わり寺の塗装に使う水銀は、あ奴等に商わせてやってくれ。これがわしからのあの時の礼と、形見と云うわけじゃ。」
「田村麻呂様。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊