一縷の望(秦氏遣唐使物語)
中に入ると昼間にも関わらず薄暗く、また徐々に蒸し暑さの増していく奥に行くまでに、何人もの若い貴族が太刀を振りかざして襲って参りましたが、皆田村麻呂様達の敵では無く、一刀の元に斬り捨てられてしまいました。田村麻呂様は何人も斬り捨てて奥にお進みになり、倒れた者を振り返りもされませんでしたが、この時倒された者は、秦の忌寸(中級下級貴族)の若者達の中で薬子様の魅力に心酔した者達であります。一番奥に行くと、そこに抜き身の太刀を手にした薬子様と天台密教の泰信大僧都(唐から来た東大寺僧)がいたのでした。大僧都はでっぷりと太り、南方系の唐人らしく浅黒く、目が細く吊りあがっておりました。その目と目が合った途端、大僧都が細い目を精一杯見開いて、
「きえー。」
と片手を上げながら奇声を挙げたのです。すると、田村麻呂様と綿麻呂様を始めとする兵達は身動きが出来なくなってしまったのでした。かの方の肩に留まっていた『今生』はその途端に飛び立って、泰信大僧都目掛けて襲い掛かったのです。しかし傍らにいた薬子様が太刀を一振りして、大老鷲を叩き切ってしまったのでした。田村麻呂様は心の中で、
『今生―』
と叫び、術の為に声も出せぬ自らに歯噛みしたのです。一方薬子様はにやりと笑い、
「我(われ)が素直に捕まるとでも思うてか。」
と言い放ったかと思うと、目を吊り上げてこちらを睨みつけ、身体中から炎を吹き出し、真っ赤に燃え始めたのでした。田村麻呂様達は身動きが取れぬままぶるぶると震え、こう仰ったのです。
「おのれ、妖怪坊主。」
すると泰信大僧都が高笑いしてこう仰いました。
「これは拙僧の力だけでは無い。ここにいる薬子様が類稀無(たぐいまれな)きお力をお持ちなのだ。拙僧は、それをお借りして術を掛けたに過ぎん。」
田村麻呂様、綿麻呂様が歯軋りをしてくやしがりながらそれをお聞きになっていると、突然背後から力強くお二人の肩を叩く者があり、すると金縛りにあっていたお二人の身体が自在に動く様になったのです。田村麻呂様が振り返ると、そこには何と懐かしいあの鈴鹿御前様のお姿があり、綿麻呂様のすぐ後ろには、お二人の肩を叩かれた空海様がいらっしゃったのでした。田村麻呂様は、思わずこう叫ばれました。
「鈴鹿、今までどこへ行っていたのだ。随分探したのだぞ。」
「田村麻呂様、綿麻呂様、どうぞお下がりください。この者は私の娘で御座います。一族の不始末は、一族の者がなさなくてはなりません。」
その言葉の勢いに押され、お二人が共に下がりますと、喜娘(きじょう)(鈴鹿御前)様は顔色を真っ青にしたかと思うと、かの方の周りが白く凍りついたのでした。隣に居た空海様も一歩前に出て、こう言ったのです。
「この空海、陛下(嵯峨天皇)に直々頼まれて上皇陛下の企みが水泡に帰すようにと祈祷しておりましたが、祈祷するよりも、こうして直接手を下した方が早いと云うもの。覚悟せい。」
その言葉を聞いた途端、泰信大僧都が顔色を変えてこう言ったのでした。
「ほう、御坊が空海か。二十年在唐する筈の留学僧が早々と帰って来おって、我が天台宗の最澄様と同じ密教を広めようとは、誠に目障り千万。今の内に最澄様に代わって片づけておくのが肝要と見た。我が台密と御坊の真密、どちらの験力(げんりき)が上か、ここで結着を付けてくれようぞ(この秦信に比叡山二代天台座主円澄が師事する)。」
「望むところ。」
と負けん気の強い空海様はそう言うと、智拳印(ちけんいん)を結んだのでした。この時の空海様は何故か袈裟を身に付けられておらず、頭も烏帽子(えぼし)を被っておられました。そしてそのまま、
「オン・キリカクワン・ソワカ。」
と真言を唱えられ、泰信大僧都も同時に火界印を結び、
「ノウマク・サラバ・タタギャティビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロンシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビキンナン・ウンタラタ・カンマン。」
と唱えたのでした。しかし徐々に泰信大僧都の額から脂汗がにじみ出てきて、ついには膝をがっくりお付きになったのです。そして倒れながら、
「何故だ。何故、不動明王秘呪一切成就法が供物も捧げぬ茶枳尼(だきに)天法等に敗れるのだ?」
それを見下ろしながら空海様は、
「供物等有ったら、御坊の命は亡う御座ったぞ。最澄様に免じてそこまではせなんだ。拙僧の懐には故恵果和尚より譲られた法力の源、仏舎利八十粒があるのだ。また唐渡りの御坊では知らぬのも無理無いが、ここ大仏のある奈良の地で術を使うなら、大日如来の化身である茶枳尼天の法を選べば負ける筈があるまい。あの像は、大日如来の術を増幅するのだ。」
と仰ったのでした。それを聞いた泰信大僧都は、
「調べが足りなかった。」
と呟いて、そのまま気絶したのでした。不動明王は元々空海様が日本にもたらした仏です。その仏の呪法をその手を打ち破ることとなるとは、まことに因果なことに御座いました。
そんなことが横で行われている最中、喜娘様は陶器の瓶から口に何やら液体を含んで、燃え盛る薬子様に飛び付いたのです。かの方の紅蓮の炎も喜娘様の冷気に何の意味をなさず、薬子様は手にしていた太刀を突き立て、母親である喜娘様の身体の真ん中にそれをずぶりと突き刺したのです。しかし喜娘様は、そのままあえて刃を深く突き刺して娘の口に自らの口を付け、含んでいた毒を流し込んだのでありました。そして、お二人とも泣きながら一言も発することなく、その場に崩れ落ちたのです。
「鈴鹿!」
と一声叫んで、田村麻呂様がその瀕死の身体を抱き起こすと、喜娘様はもはや虫の息でありながら、弱弱しい声で一言、
「薬子。」
と言いながら薬子様の方に震える片腕を伸ばし、毒で口も利けない薬子様が、やはり片腕を喜娘様の方に差し伸ばして、二人の手が弱弱しく握り合うと、お二人同時に息絶えたのでありました。
「鈴鹿!」
ともう一度田村麻呂様は絶叫し、喜娘様を強く抱きしめて男泣きに泣かれたのでした。すると、喜娘様の懐から血だらけの文(ふみ)が落ちたのです。涙を流しながら田村麻呂様がそれを拾い上げて見てみると、それは田村麻呂様宛のもので、次の様に書かれてありました。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊