小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一縷の望(秦氏遣唐使物語)

INDEX|111ページ/127ページ|

次のページ前のページ
 

 さて翌年弘仁元(西暦八一〇)年、退位した平城上皇陛下は旧都平城京の仮御所(故右大臣中臣清麻呂館)へ移られたのですが、上皇が即位なされたばかりの頃、政(まつりごと)の刷新を目指して制度化した観察使の制度は、地方の行政が正しく行われているか見張る役割で問題は無いのですが、これを設ける時、陛下に意見する役割の参議を廃止してしまったことが、これまで参議になることを目指してきた貴族階級全てからの不満を呼ぶと共に、観察使の制度そのものへの不満となってしまっていたのでした。その為新しい陛下が即位なさり、この制度を廃止して参議も元通りにしようとされたので、上皇陛下は激怒し、奈良に朝廷を開いて二所朝廷と言われる対立が起こってしまったのです。その上、陛下が最初に着手されたのは蔵人所(くろうどどころ)と云う新しい役職を置いたことで、その長である蔵人頭(とう)に側近の北家藤原冬嗣様を任命し、これまでの様に尚侍を経なくても蔵人頭を通せば事足りることとしたのでした。この状況に焦りを感じた尚侍の薬子様は、兄の仲成様と共に上皇陛下を煽ったことは言うまでもありません。結局観察使はその年の六月、陛下(嵯峨天皇)の手によって廃止されて参議も元通りに復活して、上皇陛下の怒りの火に油を注いだのでした。
 またその年の九月六日、上皇陛下はついに平安京を廃して、再び奈良を都にする詔勅を出されたのです。陛下(嵯峨天皇)は意外な展開に驚きながらも一先ずこれに従って、自らの腹心の、あの兵部卿坂上田村麻呂様、式部大輔北家藤原冬嗣様、相模守紀田上(きのたうえ)様らを造営使に任命し、極秘の任務として上皇陛下監視を命じたのでありました。しかしもう同月十日には陛下は甘い対応をしたことを後悔して、遷都をあくまで拒否することを決断されたのです。そこで、奈良周辺の国々の伊勢・近江・美濃の国府と故関(古い関)を兵で固めさせたのでした。そして京の様子を探りに来た仲成様を捕えて監禁し、薬子様の地位を剥奪する詔を出されたのです。さらに陛下は、一度は造営使に任命した既に五十路で老齢の坂上田村麻呂様を大納言にし、藤原冬嗣様を式部大夫、紀田上は尾張守に昇進させ、平安京側を裏切らない様にしたのでした。そしてどちらに付くか分らない近衛兵よりも、実用化されつつあった健(こん)児(でい)の制度を利用して兵を集め、その兵を田村麻呂様に預けておいたのです。この健児の制度とはかって恵美押勝様が復活させた制度で、平民の若者を兵として徴収するのですが、平民で武装している者の多くが秦氏である為、自然と秦氏の兵となってしまっていて、前述致しました通り、本家筋の太秦宅守様からの通達で彼らは陛下(嵯峨天皇)にお味方する手筈になっていたのでした。
 さらに新しい陛下の為に祈祷中の空海様には、異例の若さにも拘わらず、新たに東大寺別当(寺務の総裁)の兼任を命じられ、奈良仏教勢力の分散化を図ったのです。空海様にしても、東大寺の華厳経は後少し付け加えれば密教となるものなので、この機会に完全に自分の味方としておきたいところなのでした。また東大寺別当となったことで、たまに東大寺にも顔を出す様になった空海様は、杲林(ごうりん)様などの有能な僧を自分の弟子に引き抜くことに成功するのです。
 同月十一日陛下は、太秦浜刀自女様の献言で密使を奈良に送り、若干の身分の高い者を召致しました。そしてやってきた上皇陛下の側近の北家藤原真夏様や文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)様(田村麻呂がかって従者にしていた三諸(みむろ)綿麻呂が改姓)が捕えられ、綿麻呂様だけは禁固されたのです。お二人を可愛がり、また頼りにしていた上皇陛下は再び激怒し、東国へ行って挙兵をする決断をなさるのですが、父(中納言北家藤原葛野麻呂)らはこう言って諌めたでした。
「今動いてはいけません。あちらには坂上田村麻呂がついている上に、軍事面において全て先を越されています。側近の皆様も多くは拘束されてしまいました。奈良から京へ向かう道が封鎖されているからと言って、今東国に行っても相手にしてくれる者は少ないでしょう。何故なら私の実家の太秦家は全国の健児の動向を掌握しているのですが、今兵は動かぬよう通達を出しているのです。」
 この健児の制度のことは既に書きましたが、そんなことは上皇陛下がご存知の筈は無いのでした。ですから、これに対し上皇陛下はお身体の具合も良く、すこぶる元気でありました。
「ええい、うるさい。平安京遷都のことは皆が反対しておったではないか。朕が行動を起こせば、賛同する者も必ず出てくる。それに仲成や綿麻呂らの近臣を捕えられ、我が腕をもがれたも同然なのにこのまま黙っていられようか。とにかく朕は行く。」
と言って、薬子様を連れて輿に乗って東へ発ってしまわれたのでした。
 これを知った陛下は、直ちに坂上田村麻呂様にこの動きを阻止することを命じたのです。
田村麻呂様が出陣するに辺り、常に陛下の後ろに侍る太秦浜刀自女(うずまさのはまとじめ)様は再びこう献言されたのでした。
「ぼんさん、坂上田村麻呂を用いはるなら、かつての蝦夷征伐の時の戦友であり監禁されてはる文室綿麻呂さんを釈放して従軍させるのどす。そないすれば、田村麻呂さんと綿麻呂さんは勇躍ぼんさんの為に命を賭して働くでっしゃろ。」
 陛下は度量のある所を見せ、綿麻呂様を釈放し従軍を許すばかりか、復活した参議の職に抜擢し、後顧の憂いを払拭させておいたのです。
 この十一日の夜、陛下の処置に勇んだ田村麻呂様は出陣するに辺り、捕縛された藤原仲成様を、左遷の処分を偽って伝えて解き放ったのでした。仲成様が牢から外へ走り出した時、その場にいた左衛士府の兵全員がこれに狙いを定めて矢を放ち、あわれ仲成様は針鼠の様になって息絶えてしまったのでした。
 まず仲成様を血祭りにあげた田村麻呂様は、毘沙門天の生まれ替わりとも呼ばれる綿麻呂様と共に出陣し、老鷲の『今生』を肩に馬を飛ばして上皇陛下の行く手を大和国を出る前に阻んだのでした。可愛がっていた綿麻呂様まで敵に回ったこと知った上皇陛下は、とても敵わぬと見て奈良へお戻りになったのです。翌十二日、田村麻呂様達は上皇陛下を追って平城京の仮御所の入り口まで参りました。すると、中から頭を丸めた上皇陛下が飛び出して来たのです。上皇陛下は丸腰で諸手を挙げ、
「降参じゃ。降参。勘弁してくれ。」
と仰ったのでした。田村麻呂様はそれを聞き、こう聞き返しました。
「降参は分り申したが、薬子様はどうなされたのですか?」
「尚侍は建物の中じゃ。中には尚侍の個人的な親衛隊が守っておるぞ。気を付けよ。」
「分り申した。」
と田村麻呂様は申し上げ、太刀を抜いてそのまま仮御所の中に、同じく太刀を抜いた文室綿麻呂様や兵と共に中へ踏み込んだのでした。