一縷の望(秦氏遣唐使物語)
また疎まれていた陛下が譲位されたことを機に、空海様は住みなれた筑紫を離れ、入京する為の旅に出掛けたのでした。同年七月、入京の為の許可書が出され、和泉の国司に送られたのです。それは当時空海様が、伯父の永真様と共に和泉の槇尾山寺(大安寺僧の山岳修行用の寺)に移り住んでいたからでした。この槇尾山寺で一番弟子の実恵様と出会ったのです。この寺には甥の智泉様(空海から小麦粉を授けられて讃岐にもたらし、饂飩(うどん)空海元祖説の元となる)も讃岐から訪ねて来て、ニ番弟子となられたのでした。陛下(平城天皇)が具合が悪くなったのは、この槇尾山寺で空海様が例の「波切不動明王像」に祈祷されたからとも言われています。入京の勅許が出た空海様は、高尾山寺、和気氏の私寺に移ったのでした。ここにも、和気氏を経由した秦氏の思惑が見え隠れ致しますが、そう言えばこの年、父(葛野麻呂)は五十路を越えて和気清麻呂様の末娘、愛(まな)虫(むし)様と結ばれたのです。この後すぐお二人の間には男子、つまり私の弟(藤原氏宗)が生まれたのでした。父の年齢を考えると、誠に恐るべきことであります。また、このことで秦氏と和気氏が二重の意味で婚姻によって結ばれて、その絆が一層固まったのでした。
話がだいぶ逸れましたが、この高尾山寺は入唐前からの最澄様の愛弟子円澄様のいらっしゃっるお寺で、和気氏のみならず、和気氏を経由した父葛野麻呂の庇護する最澄様との関係でこの寺に空海様が住んでいたことが分ります。さらにこの寺にいる時に入京の許可書が出たのも、最澄様が口を利いたことが影響していると言えましょう。案の定この時、
最澄様は書面で真言、悉曇(しつたん)(梵字)、華厳の典籍を借りることを空海様に申し出、それで密教の教えを独学で学ぼうとなされていたのです。これは、桓武陛下が約された年分度者と公費の支給が、最澄様の密教習得完了の知らせが無い為、まだ執行されて無いからでもありました。幸い、空海様は快くそれらをお貸し下されたのでしたが、それで会得できる様な生易しい密教では無かったのです。
また同年十月、空海様の祈祷で譲位された新しい陛下(嵯峨天皇)が屏風に「世説(せせつ)」と云う書の一節を書いてくれる書の名人を探していた時、まず橘逸勢様(空海様と遣唐使仲間)が声を掛けられたのですが、逸勢様は御自分では無く空海様を陛下に紹介したのでした。この時すかさず乳母の太秦浜刀自女様が、
「ぼんさん、あの空海さんは、自分のかつての師である阿刀大足さんが上皇陛下から疎まれはって、その所為でご自分まで入京出来ぬことを嘆き、何と上皇陛下を槇尾山寺で呪詛したのでおます。するとその験(しるし)がたちまち現れ、上皇陛下は病に倒れ、ぼんさんはそのお陰で即位出来たんどす。それに実はあの僧は、かつてわてがぼんさんに紹介した仏さんとなるべき修行をしていた者の成長した姿なのでおます。さあ、もしもぼんさんが今後上皇陛下と天下を争われる気なら、この空海さんを是非とも味方にすべきではおまへんか。」
と、秦氏の庇護する空海様を推されたのでした。浜刀自女様は新陛下の乳母ですが、秦一族のほぼ全員が桓武陛下や藤原種継様に全財産と全精力を傾ける中、ただ一人神野親王と申し上げた自らの育てた皇子様に注目し、真の転輪聖王となるべく成人してからも厳しく
鍛え上げられたのです。その側近も浜刀自女様自ら選び抜き、文官には故百川様の子式家緒嗣様や北家冬嗣様、南家三守(ただもり)様、秦氏の理解者の多入鹿様(太安万侶の子孫)等、武官には坂上田村麻呂様等を側近に推薦したのでした。今また、転輪聖王に対する仏陀として、空海様を新陛下に薦められようとしているのです。新陛下は、この献言を切っ掛けにして空海様との親しい交際を始めたのでした。ここにようやく、嵯峨天皇陛下と空海様の二人三脚の関係が始まったのです。これこそ、あの秦氏の理想とした転輪聖王と仏陀の関係と言えましょう。
もちろん空海様はこの時、自らの上皇陛下呪詛の祈祷が「孔雀(くじゃく)明王(みょうおう)経(きょう)」「仁王(にんのう)経(きょう)」「守(しゅ)護国界(ごこっかい)主(しゅ)経(きょう)」であることを陛下に言上し、その使用許可を得、この新しく入った高尾山寺でも続けられたのは言うまでもありません。ただこの寺は自らも霊力のあるあの和気清麻呂様が、宇佐八幡神との約束で立てた寺で、しかもその本尊の薬師如来像は、道鏡法師の怨霊から清麻呂様自身を守る為に造らせた因縁付きの代物ですから、以前の寺とは同じ修法でもその効果が違います。そしてこの御祈祷は、空海様がその生まれ変わりと言われる不空金剛様が安禄山の反乱を治めた時のものとまったく同じものであったのも、因縁と申せましょう。その内容は、例えば「孔雀明王経」なら、二手を外縛(げばく)して二大指と二小指を立て合わした印相を組み、孔雀明王の陀羅尼をこう唱えるのです。
「オン・マユラキ・ランデイソワカ。」
これを本尊の薬師如来像と共に、前と同様「波切不動明王像」も横に置いて祈祷されたのでした。その効果は二倍以上となったことでしょう。
またこの時期から空海様による書道の指導が行われ、前述した様に陛下は空海様や橘逸勢様と共に平安の三筆と言われる程の書の達人となられるのでした。陛下は、容姿も含めて父親の桓武天皇から良い所ばかり受け継がれた様なのです。ただ、逸勢様は空海様を紹介した功績があるにも関わらず、陛下から重用されることはなく、うだつの上がらぬままあの悲劇まで時を過ごさねばならないのでした。逸勢様が出世なさらなかったのは、大げさなことを言うその性格が災いしたのではないか、と思われます。その悲劇のお話は、またその時が来たらお話したく存じます。
その一方この年、最澄様にとって大事なことが陛下によってなされました。それは、平城上皇陛下が譲位される前に放置されていた、桓武天皇陛下が約された年分度者二名ずつの約束が果たされ、四年分八名が天台宗・密教の僧侶として選ばれたのでした。この為にも、空海様から書籍を借りることが増えてきたのです。しかし意外なことに、この年分度者の決定の正式な手続きが終わった五日後に、初代天台座主となった一番弟子の義真様に比叡山を突如預け、最澄様は隠居を告げてしまったのでした。その理由として最澄様の体調不良も挙げられますが、密教その他の書籍を空海様から借りても、それを書写することが出来ておらず、後継者が出来た所で引退し、それをじっくり読み込んで修業しようと云う思惑があった様に思われます。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊