一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「右大臣ご苦労であった。尋問はもう良い。参議の安倍兄雄(あべのあにお)と左衛府督(かみ)巨瀬野足(こせののたり)(坂上田村麻呂と共に征夷副使となったこともある)に命じ、伊予親王とその母の吉子を捕え、奈良の川原寺に幽閉するのだ。藤原緒友も捕えよ。早くせえ。」
と、陛下からとんでもない言葉が発せられたのでありました。その後は碌な取り調べも行われず、粛清の嵐が吹き荒れたのです。伯父の南家藤原緒友様は虚偽の報告をしたとして
流罪、また中納言南家藤原乙叡(たかとし)様は解任され、南家の勢力は大幅に後退したのでした。その一方北家藤原宗成様は流刑とはなりましたが、その後赦されたのです。もちろんこれは、
最初から約束されていたことなのでした。またこの時、伊予親王様の侍講(家庭教師)で
あった阿刀大足様にまで類が及びそうになったので、大足様は甥の空海様を頼って縁(ゆかり)の槇尾山寺に逃げ出して来たのです。空海様は未だ筑紫からこちらには来ておらず、それを聞いた勤操法師様が駆け付け、大足様を空海様の時と同様私度僧にして剃髪し、法名永真と名も変えたのでした。永真様はその後筑紫まで空海様を訪ねて来て、その後の八十七年間の人生を空海様のお側で過ごされるのです。この粛清は、やがて空海様をも巻き込むこととなる秦氏同士の争いが勃発したと言えるのでした。むろん、この血で血を洗う争いはこれで終わりでは無かったのです。
その一方、式家は全盛を極め、藤原仲成様は左衛士督、宇大弁、北陸道観察使と要職を歴任し、薬子様は尚侍(ないしのかみ)(天皇の言葉を臣下に伝え、臣下の言上を天皇に伝える役職)になられたのに飽き足らず、政治にも口を出すようになり、兄仲成様と共に専横な振る舞いが多くなられたのでした。薬子様は兄仲成様に、こう言っていたと云うことです。
「はっはっはっはっはっ。秦氏と名門藤原氏の子種を受け継ぐ父様(種継)の子の我ら兄妹が、父母の念願でもあった秦氏の現世における栄華を極めたぞ。のう兄上。」
「薬子様様じゃのう。」
この様な言動が目立った為、お仲間である筈の北家藤原氏を始め、式家の方からも嫌う方が激増したのでした。一方北家では父(藤原葛野麻呂)は出世し、この時期中納言、正三位にまで登りつめたのでした。しかし父は自らの昇進を喜ぶよりも、孤立していく薬子様や仲成様の身を案じていたのです。そこで、機会を捉まえて次の様に薬子様に忠告したのでした。
「尚侍(薬子)様、御自分の回りが見えておいでなのですか? 藤原家以外の氏からは元より、他の北家、南家の皆様からも妬まれ、挙句の果ては同じ式家の皆様方からも孤立していることをお気付きにならぬのですか? このまま無事に済む筈が御座いません。きっと恐ろしい反動が来ますぞ。」
これに対し尚侍の薬子様は、こう答えて取り合わないのでした。
「はっはっはっ。葛野麻呂様は相変わらず取り越し苦労が絶えぬのう。亡き父上(種継)が為し得なかった秦氏の天下を、我が成し遂げたと云うのに。」
「我らの目指す転輪聖王(てんりんじょうおう)とは、この様な覇道では御座いません。良き心で民を治める聖王に御座います。今からでも遅くは御座いません。行いを仲成共々お改めなさいませ。」
「くどい。いつまでも我の情人面をして説教するで無い。」
と言って、取り巻きの秦忌寸達の中から選んだ美青年達と共に奥の方へ去ってお仕舞いになられてしまったのでした。こうして薬子様を支えていた秦氏の皆様も、まず血縁のある秦真成翁は静観を決め込み、本家に当たり、葛野麻呂様の実家でもある太秦家の宅守翁は完全に嫌悪感を示され、もし兵を動かす様な事態があっても、全国の健児(こんでい)兵達に決して薬子様に味方にならぬよう通達したのでした。
そして川原寺に幽閉されていた伊予親王様と藤原吉子様の親子は、十一月十二日、ついに毒を飲んで心中したのです。かつて空海様が田村第で阿刀大足(あとのおおあし)様に学問を教わっていた頃、共に机を並べて学んでいた伊予親王様とその家で何かと世話を焼いてくれた母の吉子様は、こうして悲劇の内にその生涯の幕を閉じられたのでした。これで陛下(平城天皇)は、父天皇(桓武天皇)が早良親王の怨霊に生涯苦しめられた様に、伊予親王親子の怨霊に苦しめられ続けることとなるのです。
第九章 薬子の変
ふるさととなりにし奈良の都にも色はかは(わ)らず花は咲きにけり(平城(へいぜい)天皇作 古今集所収)
この歌は遷都してまだ間もない頃、奈良の旧京を安殿皇子(あてのみこ)(後の平城天皇)が訪れた時に詠んだ歌であります。歌意は、「古びて荒れた里となってしまった奈良の都にも、昔と美しさは変わらず花(桜)は咲いているのだった。」と云うものです。あれほど平城京に恋い焦がれた陛下らしい歌であります。因みに父桓武天皇の時代に流刑から許された五百枝王が完成させた「万(よろず)の言(こと)の葉(は)」は、「万葉集」と名付けられ、この平城陛下が世に出したものなのでした。こうして柿本人麻呂様、太安万侶様、橘諸兄様、大伴家持様、五百枝王様、平城天皇陛下へと受け継がれて、「万葉集」はようやく世に出られたのです。奈良の都を愛した陛下が、その都を象徴する和歌集を愛でられたのも頷けることでしょう。しかしそれにしても、どんな人にも見るべき所はあるものだと感心させられます。
さてことはまず、大同四(西暦八〇九)年四月、伊予親王親子の怨霊の為か、健康が一向に優れない陛下(平城天皇)が、即位した当初と違って政治も薬子様と仲成様に任せっきりとなり、ついに突然弟の神野親王(後の嵯峨天皇)に皇位を譲ると言い始め、自らは上皇となられてしまったところから始まるのでした。と言うより、薬子様や仲成様がどんなに異論を唱えられても、陛下(平城天皇)は自らの身体の不調を怨霊によるものと決め付け、帝位を譲ることによって厄を避けようとなされたのです。この時、平城上皇の息子、高岳(たかおか)親王が皇太子に選ばれました。
大極(だいごく)殿(でん)の高御倉(たかみくら)に座った新陛下の即位に際し、いつもお側に侍る乳母の太秦浜刀自女(うずまさのはまとじめ)様がでっぷりと太った身体を揺らしながら駆けつけ、まず祝辞を述べられました。
「陛下、おめでとうさん。浜が心血注いでお育てした甲斐があったと云うものでおます。」
とそう言って浜刀自女様は、肉厚の両目の涙をそっと拭われたのでした。新陛下は頭を掻かれながら、こう答えたのです。
「どうも浜に改めて『陛下』等と言われると、こそばゆいな。二人きりの時は、あるいは仲間内だけの時は何時もの様に『ぼん』で良い。朕が特に許す。良いか、しかと命じたぞ。」
「そないなこと言うたかて陛下、それで下の者に示しが付きますやろか。」
「良いか、『ぼん』だぞ。それ以外では返事をせぬからな。」
「へえ、それではせめて、『ぼんさん』と『さん』付きで呼ばせてもらいますさかい。」
そう云う訳で浜刀自女様は、即位後も陛下の相談役として大事にされたのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊