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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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「義兄(あに)よ。いやあえて義兄と呼ばせてくれ。義兄の発つ前から、私が陛下から疎んじられていたことは義兄も承知であろう。それはますますひどくなった。このままでは廃太子となるのも時間の問題よ。お主には黙っていたが、私は行動を既に起している。仲成を通して知り合った秦氏の者と通じている唐僧の天台密教の秦信法師を使って、延暦十六年に淡路に送り、早良親王の悪霊を鎮めるどころか、陛下のお命を縮める祈祷をしてもらった。また延暦十八年にも泰信法師を使って淡路で呪詛してもらい、翌年もご丁寧に秦氏の陰陽師らで呪詛したのだ。あれが鎮魂の為だと陛下は思っておられるのだからお目出度いものだ。陛下はいよいよあせり、早良親王を崇(す)道(どう)天皇と追号されたが、それも手遅れで、今や陛下をご病気に至らしめておる。今年は淡路に常隆寺と云う寺まで建立したが、まったく効果が無いので、この三月、五百枝(いおえ)王を許し、四月には崇道天皇を八嶋陵(奈良)に改葬して、今お主から献上された唐土産をその陵に奉納したそうだ。もう陛下は長くは無い。それまで私が廃太子されねば良いのだ。そこでお主らに頼みだが、陛下が廃太子されるかどうかは一刻を争う。聞く所によると、仲成の妹の薬子は大した霊力の持ち主だそうだな。しかし若くして入内したので、呪詛の作法など心得ていまい。そこで位を上げて大僧都とした先程の泰信大僧都を付けるから、薬子と共に義兄(葛野麻呂)が八嶋陵へ行って呪詛を行い、陛下に止(とど)めを刺して欲しいのだ。そして私が即位すれば、邪魔な伊予親王は即排除しよう。」
「排除とはどの様に。」
と、父(葛野麻呂)は青い顔をして尋ねました。安殿親王様はうすら笑いを浮かべながら、こう仰ったのです。
「決まっておろう。宗成、そちにまず働いてもらうぞ。そちは伊予親王に謀反を勧められた、と嘘の密告をするのだ。さすれば、後は何とでもしよう。」
「全ては陛下が、廃太子前に崩御してからの話ですな。妹には良く言っておきます。」
と藤原仲成様がにやりと笑って相槌を打たれました。父は、ただ黙って一同を見ているしか出来なかったそうです。
 さて、遣唐使船第一船には最澄様も乗っておりましたので、当然かの僧も一番弟子の義真様と共にお帰りになり、自らの支援者でもある陛下に帰国の報告に行かれたのでした。陛下はご病気でしたが、ご自分の病を祓ってくれそうな最澄様の帰国報告を、病床で無理に直接お聞きになられたのです。陛下はまず、こう仰ったのでした。
「おぉ最澄帰ったか、さっそくだが御坊が唐で何を学んできたか報告してくれ。」
「はい、陛下のお身体に障らぬよう手短にお話し致します。私は、まず天台宗第七祖道(どう)??(ずい)和尚から天台教学の奥義と大乗菩薩戒を授かりました。また、惟象阿闍梨から雑曼能荼羅の供養法(密教の一種)を受け、また行満和尚からも天台の教理を学び、禅宗の牛頭禅なども学びました。越州の紹興では天台密教の潅頂を受け、密教経典も少し手に入れまして御座います。」
「ほう、それは素晴らしい。御坊こそはこの国の国師よな。修行を積んで無事帰国出来た祝いに何か褒美を取らさねばならぬな。何が良い? 何か望みのものが有れば遠慮のう申してみよ。」
「それでは恐れながら申し上げます。まずは拙僧が唐で習ってきた天台宗の一宗一派を開くことをお許し頂きたく存じます。」
「うむ、それはそうじゃのう。南都の坊主共が慌てふためく様が見える様じゃ。他にも何かあるのか。」
「はい、それに付きまして、年分度者(ねんぶどしゃ)(朝廷で公認し、公費が支給される)を二名御許可頂き、その二名の者の内一人を天台宗を専攻する止観業(しかんごう)とし、もう一人を密教を専攻する遮那業(しゃなごう)と致しとう御座います。」
「うむ、承知した。ところで物は相談じゃが、御坊に密教の怨霊払いの力を駆使して、朕に付きまとう早良の怨霊等を払って欲しいのじゃが。」
「いえ、私の習いましたのは、密教と言ってもその初歩に御座いますれば、怨霊払い等と云う所までは至りませんでした。これも請益僧(短期留学僧)の為ご容赦下さいませ。また持ち帰りし経典を良く読み、一刻も早く密教を完全に会得致しますので、しばしの猶予を下さりませ。」
「そうか、なら御坊が密教を完全に身に付けるまで待つしかないのか。年分度者の許可も、それまではお預けじゃな。しかし、朕の身体が御坊が怨霊払いを身につけるまで持てば良いのだが…。では朕の病気平癒の祈祷だけでもしてくれ。それなら、僧なら誰でも出来ようから頼めるだろう。」
「はは、畏まりました。」
 最澄様が祈祷の用意を始めると、陛下は再び横になってこう呟かれたのでした。
「請益僧に多くを期待していた朕が悪いのじゃが、御坊が帰国すれば、すぐにでも早良の怨霊を払ってくれるものと思っておったのに。早く密教をきちんと習って、朕の病も調伏してくれ。御坊にこれまで目を掛けてきたのは、小黒麻呂親子に言われて来たからばかりでは無い。分っておるな。」
 最澄様は形通りの病調伏の祈祷を済ませると、何となく気まずいまま一礼して退去したのでありました。
 そんな事が有った後、最澄様帰国のことを聞き、二人の重要な者が弟子入りしました。
一人はかつて師であった行表法師様からの紹介で入門してきた元興(がんごう)寺の泰(たい)範(はん)様、もう一人は若き円仁様でした。泰範様は、行表法師様と同じく近江出身の秦氏でありました。このお二人が、この後の最澄様の人生に深く係わってくるのです。
 ところで崩御の一か月前、朝廷の深刻な財政不足を悩んだ陛下は、その対策を参議の中で比較的若手の二人、藤原緒嗣(おつぐ)様と菅野(すがの)真(ま)道(みち)様に検討させたのでした。これを俗に徳政論争と呼んでいます。緒嗣様はこの論争で、
 「朝廷が財政に苦しんでいるのは、軍事(蝦夷討伐)と造作(平安京の造営)が原因です。この両方を中止すれば、天下万民を安んじることが可能でありましょう。」
と唱えなさり、長年秦氏と共に都造営に取り組んでこられた真道様は、もちろんこれに反論されたのですが、結局陛下は緒嗣様の案を採用され、蝦夷討伐の征夷大将軍坂上田村麻呂様は解任されて都に呼び戻され、代わりに緒嗣様が陸奥出羽の按擦使(複数の国司の代表)となられたのでした。この事が、後々大きく情勢と係わってくるのであります。因みにこの緒嗣様とは亡き百川様の長男であり、その母親はこれも亡き良継様の娘の諸姉(もろあね)様なのでした。緒嗣様は、父親の百川様譲りの明晰な頭脳と母の父の良継様譲りの度量の大きさを受け継ぎ、父親の陰湿な所は少しも似ておらず、常に真っ直ぐに目の前の物を見据えている様でした。