一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「早く祖国に帰り、国家に奉仕し、全国に真言密教を広め、人々の幸福を増やすのだ。そうすれば全国が平和になり、全ての人が楽しく暮らすことが出来る。そして仏恩に報い、師の徳に報い、国家の為には忠義、家の中には孝行が出てくる。御坊はすぐに行って、これを東国(日本)に伝えよ。努力、努力じゃ。」
そう言ってから少し間をおき、恵果和尚様はさらに続けられました。
「ところで、御坊は心の中で密かに思っていることがあるな。それは、密教を学ぶ一つの動機となったことで、男子(をのこ)の煩悩を制御する術を学ぶことであろう。拙僧の命はもう終わる。そこで今まで黙っておったが、拙僧と不空様金剛は、ただの師弟関係では無く、男同士で想い想われる間柄であった。御坊にこんなにも目を掛けたのは、不空金剛様存命の頃は適わなかった夢を、生まれ変わりである御坊に叶えてもらう為でもあったのだ。それは不空金剛様は拙僧の想いに対し、もしも自分の死後、生まれ変わって再会出来たなら、拙僧と契りを交わそうと約されたからなのだ。どうか現世の思い出に、そして御坊の密かな願いである煩悩の制御する密教の最高奥義を授ける為、御坊の情けをくれまいか。」
空海様は、大恩ある師の頼みに嫌も応もなく従うより他なく、また煩悩を制御すると云う奥義も既に二人の天竺僧から伝授されていたことではあったのですが、それは到底満足出来るものでは無かったので、もし有るのならそれとは違う真の奥義を知りたくて師の求めに応じることと致しました。空海様が恵果和尚様と繋がった瞬間、その心の中に落雷に打たれた様な衝撃が走り、その瞬間空海様の精神的な情欲は、肉体的な反応と切り離されたのです。まさにかつて泰澄大和尚様が臥(ふせ)行者様、浄定(じょうじょう)行者様と共にやっていたことと同じく、片方だけではこの境地に至ることは出来なかったのでした。天竺僧の教えは間違ってはいなかったのです。ただあの行為は、恵果様のした行為が合わさって始めて空海様を神聖なる菩薩と化すのでした。一方恵果様は合掌しながら涙をお流しになり、
「不空金剛様、これで積年の想いを遂げることが出来ました。おぉ、兜率天(天国)が見える、兜率天が…。」
と言いながら、和尚様はそのまま遷化(死去)なさったのです。空海様は恵果和尚様からの奥義伝授以来、自らの欲望を理性によって処理することがお出来になる様になり、世俗の者が到達しえぬ煩悩の制御を遂に可能にされたのでした。以前にもこれを達成されていた筈だったのですが、今度こそついに理趣経の説く最高境地に正しく辿り着いのです。
そしてその夜、さらに話足らなかったのか、空海法師様の夢に恵果和尚様が出てきてこう仰ったのでした。
「御坊と拙僧には、師弟の深い宿契(しゅくげい)(因縁)がある。拙僧の師の生まれ変わりがそなた
だ。今度は拙僧が東の国に生まれて、そなたの弟子になろう。長くこの地(唐)に留まっ
てはならぬ。拙僧は先に行くこととする。それと拙僧にはもう不要な物故、法力の源、仏舎利八十粒を進ぜよう。」
と仰ったのでした。そこで空海様は、まだまだ残っている留学期間を切り上げて日本へと戻る決心をされたのです。しかし、その方法はとんと見当がつきません。とにかくも空海様は、全弟子を代表して亡くなった和尚様を顕彰する碑文を自費で起草されたのです。
そんな時、最初の出航で日本に引き返して改めて唐へと向かった遣唐使船の第三船と第四船の内第四船が唐に辿り着いたのでした(第三船は再び遭難)。そこで空海様がその船で帰国されようとすると、共に長期留学生だった橘逸勢(たちばなはやなり)様も、
「唐の言葉が分らなくて会話もままならぬし、留学資金も尽きた。」
と言って帰国の意思を示し、空海様と共に帰国の希望を遣唐判官の高階遠成(たかしなのとおなり)様に書面(橘逸勢の分も空海が代筆)で提出し、それが認められて帰国が実現したのでした。最初にここに漂着した時、福州の観察使の心を動かした程の名文が、再び高階遠成様の御心を捉えたのでしょう。考えてみれば、一番最初の一人の請益生が命を落とした遣唐使船には乗りませんし、またそのお蔭で遣唐使に欠員が出て自らがそれに選出されました。そして出航した船では第一船に乗って、第三船や第四船が引き返したのに対して唐に辿り着き、帰りたいと思った時に、先の二船の内第四船が入唐してきたのですから、これほど運の良い方は見たことも聞いたこともありません。もし仮に、空海様が規定通り次の遣唐使船を待って帰国しようとしたら、実は次の遣唐大使は私(藤原常嗣)なのですが、何と三十年後の承和五(西暦八三八)年、つまり空海様の死後と云うこととなってしまっていたことからも、この時の決断の正しさと、帰国出来た運の良さが分ろうと云うものかと思われます。
揚子江の河口の明(みん)州の港まで来ていよいよ日本へ向けて出航する前に、空海様は海に向かってこう叫んだのでした。
「日本国に私が寺を立てるにふさわしい地があれば、我よりも早く辿り着くべし。」
こう言って、密教の道具の一つである三鈷(さんこ)を放り投げると、それは空高く飛んでいって、やがて見えなくなってしまいました。
第八章 伊予親王の変
今朝の朝け鳴くちふ鹿のそのこゑを聞かずは行かじ夜は更けぬとも
(桓武天皇作 日本後紀所収)
この歌は、鳥(と)狩(かり)(鷹狩)の帰りに伊予親王様の山荘に立ち寄った時に、陛下が詠まれた歌です。意味は、「たとえ夜更けになっても、今朝鳴くと人が言った鹿の声を聴くまでは、立ち去る積りは無い。」と言うもので、詠った途端、鹿が鳴き、陛下は喜んで伊予親王様を始めとする周りの供にこの歌を唱和するように求め、それから夜分までそこにいらっしゃった、と云うことです。この様に伊予親王様と陛下は親しくつきあい、皇太子の安(あ)殿(ての)親(み)
王(こ)(後の平城(へいぜい)天皇)様は例の薬子様との一件以来疎まれてしまい、このままでは皇太子の地位さえ危ぶまれる事態も起こり兼ねないのでした。年長で、しかも人物としても優れている伊予親王様を陛下が立太子されなかったのは、現皇太子の母故藤原乙牟漏様が、陛下と仲が良かった百川様の兄良継様の娘であったからなのでした。陛下の個人的な人脈のことはともかく、安殿親王様の危うさを計算に入れてのことでは無かったのです。
ところで延暦二四(西暦八〇五)年七月一日、遣唐使船第一船で帰国した父(藤原葛野麻呂)と最澄様達が入京し、節刀を返上して唐から持って来た物を献上し、役割を終えたのでした。過ぐる六月十七日に第二船も日本に着いた知らせもあり、一安心と云った所なのです。
報告も終わり、下がろうとすると渡り廊下の所で安殿親王様に呼び止められ、東宮御所の方に父北家藤原葛野麻呂は行ったのでした。そこには式家藤原仲成様と北家藤原宗成様も待っておりましたが、一同の前で父は恐ろしいことを聞いてしまったのです。親王様はまず帰国のお祝を言ってから、すぐに本題に入りました。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊