一縷の望(秦氏遣唐使物語)
恵果和尚様は真言密教の青龍(しょうりゅう)寺の東塔に住んでおられ、空海様は西明寺で知り合った唐僧の志明様や談勝様ら五、六名と共に、最初は天気の良い日に単に見学にこの寺を訪れただけなのでした。無論、密教の正統の一つ金剛頂経を三十年前に死んだ故不空金剛様から受け継ぐ唯一の方であり、同時にもう一つの正統である大日経をも受け継ぎ、唯一の完全な密教継承者である恵果和尚様の高名は存知あげており、何とかお逢いしたいとは思ってはいたのですが、その方法も分らぬのでこうして取りあえず見学にやってきたのです。東塔に行くと、猿の様に深く皺を刻んだ老僧が奥の方に腰掛けていて、その老僧が空海様を見るなりよたよたと駆け寄ってきて、
「拙僧の名は恵果。拙僧は御坊が来るのを待っていた。ずいぶん遅かったでないか。」
と仰ったのでした。一同と共に空海様は唖然とされ、どう答えて良いか分らずにいる内に、恵果和尚様はさらに続けて、
「拙僧の師不空金剛様は死する直前、東の島に生まれ変わりお前の弟子になろう、と予言された。御坊は不空金剛様の生まれ変わりである。ところで拙僧の命はもう尽きようとしている。その前に、すぐ明日から御坊に拙僧の全てを伝授しよう。拙僧は千人の弟子がいるが、肝心の秘儀はまだ誰にも伝えてはおらぬ。」
と仰ったのです。空海様も、あの時の明星がそうであったか、と悟り、すぐに弟子入りを承諾なさって、次の日から昼夜を問わぬ真言密教伝授の日々が始まったのでした。
ところで、この不空金剛様の名を記憶しておいででしょうか。この方は過ぐる年の安禄山の反乱の時、玄宗皇帝に命じられて反乱の調伏を祈ってこれを成功させ、その名を馳せた方なのです。
修行には三つの段階が有り、一つ目を胎蔵界潅頂を以って終わらせ、二つ目を金剛界潅頂を以って終了とし、最期にまだ誰にも授けたことの無い伝法潅頂を授けられることによって密教の修業全体が終わるのです。空海様の修業は、まず「投華得仏(とうげとくぶつ)」の儀式をすることから始まりました。これは、目隠しをしたまま床の上の蔵生曼荼羅(ぞうしょうまんだら)の上に花を投げて、花の落ちた所の諸尊を自分の守護尊とする儀式です。空海様は二度花を投げ、最高尊である大日如来の上にいずれも花が落ちました。師の恵果和尚様は、
「すばらしい、不思議だ。やはり拙僧の目に狂いは無かった。」
と感嘆の言葉を発せられ、これにて胎蔵界潅頂がなされたのでした。
次に、日本にいた頃からの念願であった金剛頂経が伝授されました。それと同時に金剛界曼荼羅も理解しなくてはならないのです。空海様は、曼荼羅と云う図表に描かれた宇宙観を理解し、瑜伽(よが)と云う精神集中の修業を会得しなければなりませんでした。しかしこの瑜伽は、既に牟尼室利三蔵様と般若三蔵様と云う二人の天竺僧に習っていましたから、習うまでも無くすぐに終われたのです。よって金剛頂経と金剛界曼荼羅の理解だけの伝授で済み、金剛界潅頂がなされることとなったのです。
三番目にして最期が伝法潅頂でした。しかしこの誰にも授けられたことの無いものが、東から来た無名の僧に授けられることが他の弟子達の間に伝わり、また恵果和尚様が空海様に付きっきりになって他の弟子に対して何もしなくなってしまったことに対して、千人のお弟子達の間で反発が高まっていたのです。もちろん、随分長いこと弟子を務めていてその潅頂を受けていない弟子達は、この話を聞いて特に打ちのめされておりました。そういう気持ちを代表して、玉同寺の珍賀(ちんが)法師様と云う方がいらっしゃり、自分と同年齢の友人の恵果和尚様にこう忠告されたのです。珍賀法師様は、かつての恵果和尚様の一番弟子順暁法師様の一番弟子でありました。
「弟子の皆が、見ず知らずの倭の僧に全面的に肩入れしている恵果和尚様の態度に不満を持っております。どうか、千人の弟子のこともお忘れなきようお願い致します。」
恐らく、恵果和尚様の直弟子達は師匠に対して申し上げ辛いので、珍賀法師様に代わりに言って頂いたのでしょう。珍賀法師様の言葉に恵果和尚様は耳を貸さないので、次の朝には空海様に直接談判しようと云う意気込みでしたが、その夜青龍寺に一泊した珍賀法師様は、金剛力士(不空金剛様を連想させる)に踏みつけられると云う悪夢にうなされてしまったのでした。そこで反発を止めざるを得なくなり、次の朝空海様に文句を言うどころか和解してしまい、それ以来空海様に対する他のお弟子の態度も丁寧になったそうなのでした。
最期の秘儀の伝授が再開されました。恵果和尚様はまず、空海様に「不空羂索神変真言経」詳しく講義されました。空海様がその中に出てくる仏の中で興味を持たれたのは、密教の本尊の大日如来様の現世への使者の一人「不動使者」です。空海様はこの不動使者を密教の術の本尊と考え、「不動明王」として捉え直したのです。それは「不動明王」を大日如来様の三輪身(仏が現世に現われる目的別に使い分けた三つの姿となること)の内の一つ「教令輪身」と解釈されたのです。「教令輪身」とは、仏法に従わない者を実力行使で折服(しゃくぶく)するお姿なのでした。
以上の様な経などを理解した上で空海様は東塔院の二階にお登りになり、空海様はひたすら曼荼羅の前で座禅を組んで瞑想されました。共に上がって来た恵果和尚様も、空海様に言葉では不可能な何かを伝える為に傍に座しておりました。そうしてしばらくすると、今まで教わって来たことが整理され、曼荼羅の世界が自分の精神世界の内部に入り込んできて、空海様は秩序だった宇宙の中心となることを体感されたのでした。この時、伝(でん)法(ぽう)阿(あ)闍(じゃ)利(り)の潅頂は授けられたのです。
八月上旬には全ての伝授が終わり、恵果和尚様は「遍照(へんじょう)金剛」の密教の号と、布教に必要な曼荼羅と祖師達の図像、修行の最中にその使い方を教わった法具その他と、
「自分の本尊とする仏を、これで自ら彫るが良い。」
と言って霊木を一本、空海様に与えたのでした。もちろん、教えを受けたことと頂いたものに相応するお礼はしたのです。また空海様はこれまでお世話になった青龍寺の皆様に受けた恩の返礼に、五百人にも上る人々を招き、食事の接待をして感謝の意を表したのでした。これはまた、珍賀法師様達のお気持ちを汲んでのことであります。ただ先にも申しました通り、これらの膨大な費用は全て空海様自身が持った訳なのでした。この後十八年ある留学費用をこれに継ぎ込んだことは確かなのですが、帰国の目途はこの時点で全く立っていた訳ではありませんでしたから、また前述した様に公費も受けておらぬことを考え合わせれば、空海様が秦氏からいかに多くの援助を受けていたのかが窺い知れようと云うものでしょう。
また全てを伝授し終わった恵果和尚様は、緊張の糸が切れたのか再び病の床につき、ついに臨終となる死の床で、空海様の手を取って次の様な遺言をなされたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊