一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「私は書は自信があるが、唐の言葉はからっきしだ。大使様の文章をただ写しただけでは、役人の心を動かすことは出来ますまい。ここは私が船の中で知り合った空海様に一つ頼んでみるのが宜しかろう。かの僧なら、私以上の能筆家だし、唐の言葉も自国語の様に操ることが出来まする。」
とそう云う訳で、空海様に代筆を依頼することとなったのです。すると嘘の様に簡単に、自分達が国賓使節であることが認められてしまったのでした。
それによって県令が迎えに来て、海路にて州都の福州まで船で行き、そこで唐の都の長安に連絡してもらい、大分時間は掛かりましたが、迎えに来た馬に乗って首都を目指したのでした。そして長大な道のりを昼夜兼行で急いで旅をして、何とか目標である年内に長安に辿り着いたのです。こんなにも急いだのは、唐朝の正月元日の朝賀の式に列席する為なのでした。
その一方、父葛野麻呂が個人的にも案じている最澄様が乗っていて行方不明になっていた第二船は、第一船よりも都に行くのに便利な明州に、しかも第一船よりも先に着いておりました。と申しますのも、船が嵐の為に流され始めた時、最澄様が祈ると嵐が止んだからだそうです。最澄様にも、空海様程では無いにしろ、そう云った力がお有りなのでした。それ以降順調に旅を続け、先に唐の国に着き、他の船をひたすら待っていたのです。ただ最澄様だけは、父葛野麻呂の心配をよそに明州で台州行きの許可証を貰い、第一船を待たずにそのまま台州に向かわれたのでした。
父藤原葛野麻呂は入京後、持参した貢物を天子(当時の皇帝は徳宗だが、この時重病だった)に奉ったのですが、貞元二一・永貞元(日本の元号で延暦十九、西暦八〇五)年ついに徳宗が崩御され、太子が即位して順宗となられたのでした。空海様はこの時、話に聞いて密かに楽しみにしていた元宵観燈(がんしょうかんとう)の宴が、強行軍で都を目指してやっと期日に間に合わせたにも拘らず、この様な事情で中止となってしまい、がっかりされたそうに御座います。またこの時、宮廷内部の継嗣争いや節度使らの反乱、吐蕃の反抗などの状況を聞き、一行は暗澹たる気持ちになったのでした。
「もう唐は長くは無い。危ない思いをしてまで、わざわざ来る所では無い。」
と父は思い知らされたのです。とにかく様々な外交の仕事を空海様の手助けを得ながら済ませて、その年の二月十日長安を辞し、帰途に就いたのでした。
ところで先に別れた短期留学生の最澄様は、四月一日明州で合流致しました。この間かの方は空海様を忘れたかの様に学問に打ち込まれていたのです。まず通事(通訳)も兼ねた弟子の義真様と共に台州(たいしゅう)の天台山に向かい、そこの龍興寺で天台宗第七祖(天台宗祖は聖徳太子に生まれ変わった慧思(えし))道(どう)??(ずい)和尚様から法華経等の教えを受け、天台教学の奥義と大乗菩薩戒を授かりました。また同じく天台山国清寺では、惟象阿闍梨(あじゃり)様から雑曼能荼羅の供養法(密教の一種)を受け、次に行満和尚様からも天台の教理を学び、禅宗の牛頭禅なども学んだのです。明州に来てからも合流までには時間があると判断し、この間に越州の紹興に向かい、最期に初歩的な天台密教の潅(かん)頂(じょう)(頭頂に水を掛け、正統な後継者とする密教の儀式)を受け、密教経典も少し手に入れました。最初から短期留学生ですから出来ることは限られていましたが、最澄様の密教に対する興味は、この程度だったのです。その後、他の遣唐使達と共に帰るわけですが、長期留学生だった空海様と橘逸勢(たちばなのはやなり)様は、この異国の地に残されたのでした。この頃逸勢様は書道を空海様より教授され、元々才があったこともあって、後に空海様と嵯峨天皇と共に平安の三筆と呼ばれる程の名人となられるのです。
一人になった空海様は、長安の西明寺に長く住んでいた留学僧永忠(ようちゅう)和尚様(最澄と共に最初に日本に茶の種子をもたらした人)が遣唐使と共に帰ったので、入れ替わりにかの僧の住んでいた兜率天の内院を模したとか云う西明寺の坊に入ることとなりました。空海様の住処としては、誠に相応しい建物かと思われます。この西明寺にも空海様の求める密教経典(不空(ふくう)三蔵(さんぞう)碑表集(ひひょうしゅう)・般若(はんにゃ)三蔵(さんぞう)続(ぞく)古今(ここん)翻訳(ほんやく)経図記(きょうずき))や梵語の発音と意味をまとめた著作(大乗理趣六波羅蜜多経音義)もあり、幸先良くさっそく書写させてもらったのでした。留学期間は二〇年でしたので、私費留学生(秦氏から援助されていた)ではありましたが、時間だけは有り余る程あったのです。
空海様はこの書写が終わると次に、牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)様と高齢の般若(はんにゃ)三蔵様と云う二人の天竺僧から長安の禮泉寺において婆羅門教の法を聞き、さらに所謂本場の瑜伽(ゆが)教(ヨーガ)の基礎も指導されて身に付けたのでした。その折その最高奥義の一つとして、牟尼室利三蔵様より欲情を制御する法として衆道(男色)も指導されてしまったのでありました。これはかつて大学寮を出奔した時、勤操法師に言われた煩悩の制御法を学ぶ為でもあったのです。それは初めて経験する痛みで、空海様は歯を食いしばって耐えなさったのでした。しばらくして臀部に痛みが和らいできたので、空海様は冷静にこの体験を振り返ってこう考えたのです。
「この教えでは駄目だ。要するに生殖を目的とする女子(おなご)との交わりは汚らわしくて、そうではない男(おのこ)との交わりは清いと云うのは、少しも人の情欲を抑えることとならぬばかりか、要するに女子を蔑んでいるだけではないか。」
その後に般若三蔵様の紹介で景教の大秦寺へ行き、そこでは大徳(ガブリエル)法師様は既に亡く、佶和(ゲワルギウス)法師様だけが出迎えて頂きました。自らの出資者の秦氏に深く関係する宗教を、そこで学ぶ積りなのでした。具体的に空海様は、「大蔵経」の中の「序(じょ)聴(ちょう)迷(めい)詩(し)所(しょ)経(きょう)」(イエスの降誕と洗礼について叙述した書)や「景教三威蒙度讃(けいきょうさんいもうどさん)」(三位一体の名の元に洗礼を授ける際の讃歌)の部分を講義して頂きました。そして密教と同様に、景教の経典を密かに譲り受けたのです。
「ドウゾコノオシエヲワノチデヒロメテクダサイ。」
と、白く鼻の高い青い目の佶和法師様は、何の報酬も取らずに色々と教えて下さいました。空海様は、
「有難う御座いました。」
と言いながら内心で、『景教の名を、日本国で出すことは憚れよう。全て密教で通し、こ
れまでの仏教に対抗する新しき仏教と云うことでなくては、陛下(桓武天皇)の支持は取りつけまい。済まぬ』と思い、頭を下げておりました。天竺僧からの修業を合わせて、ここでの修業はわずかに三カ月でしたが、吸収できることは残らず吸収し、次の修業の場へと向かわれたのです。この様な短い期間で全てを学び得たのも、先に身につけていた
虚空蔵求聞持法による暗記術が物を言ったのでした。そしてこの後五月初旬、空海様は運
命の人、恵果和尚様と出会ったのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊