一縷の望(秦氏遣唐使物語)
この歌は延暦二二(八〇三)年、久しぶりの遣唐使の門出を祝して開かれた宴の席で、陛下(桓武天皇)が父(葛野麻呂)と副使の石川道益様達の為に詠んだ歌であります。意味は、「この酒はただの酒ではない。無事帰国出来るよう祈りを込めた酒である。」なのです。父葛野麻呂は、空海様に今回の航海は遭難の卦が出ているからと、これ以上の遣唐使の留学僧に選ばれる運動を遠慮されてしまい、それ程危険な旅かと思い知らされていたのですが、役目上出航せざるを得ず、これでこの世も見納めと云う気持ちで、この宴の時号泣したと伝えられています。友人の仲成様や宗成様は、盛んに酒を注いで肩を叩き、父を慰めたのでありました。
かくしてこの年の四月十六日、副使石川道益以下、請益僧(短期留学僧)の最澄様と共に遣唐使一行は難波津を出航したのです。しかし、まだ瀬戸内海を抜けない同月二一日暴風雨に遭い、沈石(碇)が使用出来ない状態に陥り、ついには船が大破して、請益生(短期留学生)の一人他多数が波間に沈んで行方不明になってしまったのでした。幸い最澄様の乗っていた第二船は無事大宰府に着き、五月二二日に京に帰ってしまった父(葛野麻呂)をそこで待つこととしたのですが、父は遣唐大使の役割を仰せつかった印でもある節刀を速やかに奉還(返還)してしまったのです。この辺りに、遣唐使に成りたくない父の意志が現れているかと思われるのでした。
翌年、再び父に否応無く節刀が授与され、五月十二日難波津を船出して今度こそ唐を目指したのでしたが、この中に留学僧(長期留学僧)に空海様、留学生(るがくしょう)(長期留学生)橘逸勢(たちばなはやなり)様(橘奈良麻呂の孫)、そして大宰府で合流した請益僧(短期留学僧)の最澄様も同行したのでした。前回、空海様は人員的に一杯で同行出来なかったのですが、半ば負け惜しみの様に遭難の卦が出ているからと、葛野麻呂様に遣唐使の一員となる運動を自ら断ったのです。先にも述べました様に、空海様の東大寺における受戒(留学僧となる最低限の資格)はこの四月でしたので、今回請益生の一人が死亡したことによる欠員が出て、今度は簡単に同行が許可されることを見越していたかの様な結果となってしまいました。追々述べては参りますが、この僧の幸運はまだまだ続くのです。また前回同様完全に安全だと云う卦は出ていなかったのですが、今回は自らのその強運を信じての船出なのでした。それにしても長期留学ともなれば二十年となる訳で、空海様の場合最澄様と違って私費留学ですから、その間の経費は全て自ら賄わなければならないことやその後の唐で大宴会を自腹で主催し金銭的余裕が誰よりも有ったことを考え合わせると、空海様をいかに秦一族が手厚く保護していたかが分ると云うものでしょう。
最澄様は最初から請益僧に選ばれていましたが、これは次の様な決定的な出来事があったからかもしれません。そもそも最澄様が内供奉十禅師の一人として宮中に務める様にな
られたのは、亡き祖父からその行く末を託されていた父葛野麻呂からの強い御推挙があった為なのでした。さらに父からその噂を耳にしていた陛下(桓武天皇)は、最澄様の願文を自らお読みになっていたくかの法師が気に入っていたこともありました。その折も折、遣唐使船を出すこととなり、その一員の請益僧に選出されるべくその名を知らしめようと、秦氏とも特に関係の深い和気清麻呂様の息子の広世様や真綱様(母は藤原小黒麻呂の娘)がお膳立てした高尾山寺の法会における最澄法師様の「法華経」の講義を、奈良の高僧達に聞く様に公式の招待をしたのでした。そもそもこの高尾山寺とは、和気清麻呂様が建てた神願寺が最澄様の密教道場として適さないので、その遺言に従って広世様達兄弟がわざわざ高尾山に新たに寺を建立して移したものなのです。この招待は、その新築のお披露目と云う意味なのでした。また公式の招待と云うことは、実際その講義を聞き、聞いてきた報告をしなければなりません。僧達は、当然素晴らしいものでした、と答えるしかありませんから、自然と最澄様の名は広まるわけです。こうしてかの僧が公費で入唐する請益僧に自然と選ばれることとなったのでした。またその陰に、我らと繋がる和気広世様、真綱様のご尽力もあったことを忘れてはならないでしょう。
最澄様は当初、空海様と再会したくて遣唐使を目指されておりました。しかし本来真面目な性格のかの僧は、いざ遣唐使に選ばれてみると自らの不純な動機を恥じ入ったのです。よってこうして念願通り空海様と再会出来ても言葉一つ交わさず、違う船にわざわざ乗り込んで、出来るだけかの僧をお避けになられたのでした。
今は亡き祖父小黒麻呂が見出したことにより、我ら藤原北家や和気氏、あるいは桓武陛下等反奈良仏教の勢力の推す最澄様。吉備真備様が元々見出したことに象徴される様に、地元讃岐の秦氏や佐伯氏等反藤原貴族、そして勤操法師等奈良仏教擁護派が推す空海様。この二人による秦氏・強いては日本の宗教界のまとめとなる後継者争いが、こうしてここに始まったと言っても過言では無いでしょう。それは同時にまたしても起こった秦氏同士の争いでもあったのでした。前述しました様に、空海様陣営には、やがて神野親王(後の嵯峨天皇)と言う強い味方が現れるのですが、それは少し先のお話となります。
二度目の航海もやはり荒れ模様で、例によって四つの船が出航しましたが、すぐさま嵐が起こり、第三船と第四船は引き返し、翌年改めて唐へ行くこととしたのです。また、父(葛野麻呂)と空海様と橘逸勢様の乗る第一船と、最澄様とお供の一番弟子義真様の乗る第二船は行方不明になったのです。この荒れた船の上で、一風変わった性格の橘逸勢様と空海様は何故か親しくなり、同じ長期留学生と云うこともあって、これ以降日本に帰るまでの間親しく交流することとなるのでした。またやはり空海様と最澄様は強運の持ち主なのか、行方不明だった二つの船の内まず第一船は、風に流されて三四日間も漂流しながらも、なんとか唐の衡州(福州)長渓県赤岸鎮に到達したのです。また第二船も、後述する様に何とか唐に辿り着いたのでした。
浜に流れ着いた日本国の船に対し福州の観察使が調査に来て、最初父葛野麻呂が仔細を文書で説明致しました。しかし、現地の役人は余程その文面が気に食わなかったのか、長い漂流でみすぼらしくなってしまった一行の様子を見て最初から疑いの目で見ていたのか、それを碌に見ずに破り捨ててしまったのです。そして一行は不審船の乗組員として砂浜に降ろされてしまったのでした。季節は未だ秋になったばかりで寒くは無かったのですが、屈辱的な野宿の扱いを何とか解消しようと、何度も自らの身分を示した文書を書くのですが、結果は同じです。そこで能筆家と云う橘逸勢様に頼んで代筆してもらおうと頼んでみると、この様な答えが返って来たのでした。橘逸勢様は才気走った小男で、多分に大言壮語する癖があります。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊