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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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と囁いたのでありました。その夜、薬子様は何のことか分らぬまま皇太子様の寝所に行き、
「薬子に御座います。何の御用でしょうか。」
と、声を掛けられたのです。皇太子様は寛(くつろ)いだご様子で、また暑いせいか半臂と白袴(下着の上下)姿で酒と簡単な肴を用意してお待ちでした。
「おお、薬子様、わざわざ来て下さって済まなんだ。ここに来てそなたも一杯どうじゃ。」
 薬子様は皇太子様のはしたない格好に困惑しながら、何とかこう答えたのでした。
「皇太子様、私は結構で御座いますが、何用で御座いますか?」
「そう急くでない。そなたも飲んでくれねば話辛いではないか。ほれ、飲め。」
「それでは一杯だけで御座いますよ。」
と言って薬子様は中に入って杯を頂き、ぐっと飲み干したのでありました。
「おおう、思った通り、良い飲みっぷりだ。」
「それで、用とは何なので御座いますか。」
「実はのう、私は昼間、そちが赤子に乳をやっている所を見てしまったのじゃ。」
「まあ。」
「私は、あれ以来そちのことが忘れられぬ。私は、あの様に乳の大きい女子(おなご)を今まで見たことが無い(薬子は楊貴妃の血が流れているので人並み外れた大きさだったが、当時の日本の女性の胸は平均的に小さかった)。余を愛してくれた母(藤原乙牟漏)は、余が成人した時にはこの世にはいなかった。それで乳を吸って甘える赤子がうらやましくてならなかったのじゃ。」
「何と云うことを仰いますか。皇太子様には、我が娘式子がおるではありませんか。」
「あの様な小娘、聖徳太子様の最後の妻はあの位だったかもしれんが、私には食指も動かぬわ。私はそなたがいいのだ。のう、頼むから私にもそなたの乳を吸わせてくれぬか。」
 似た様な要求を、血は争えぬもので実の弟の神野親王様が以前太秦浜刀自女様にしていた様な気が致しますが、その時の相手の対応一つで、同じ兄弟で同じ要求をしても賢王となるか暴君となるか分かれる様な気が致します。
「な、何を仰います。私は式子の母で、五人の子持ちで御座いますよ。お戯れはいい加減になさいませ。」
 皇太子様は杯を置いて、炯々と輝く目で見つめながら、ずいと詰め寄り、
「そなたも此処に来ることを、誰にも告げておらぬのであろう。ある程度こうなることは覚悟の上だろう。そなたの父上は気の毒なことをしたのう。それでちゃんとした後ろ盾が欲しいのであろう。だが、式子では少々荷が重すぎた。代わりを母であるそなたが果たすのは当然のことであろう。それに母と言っても、私よりも少し年上なだけではないか。」
と言いながら、薬子様の着物を脱がせ始めたのでした。
 夜もだいぶ更けてから、抜け殻の様になって衣服の乱れた薬子様が、皇太子の寝所から出て来たのであります。ところが悪いことは出来ぬもので、そこをその日宮中に東宮大夫として泊まり込んでいた父(葛野麻呂)が、母の帰りが遅い、探してきてくれまいか、と式子様に頼まれ、こうしてここまで探しに来た所で、それを目撃してしまったのです。薬子様は式子様の寝所には帰らず、そのまま父葛野麻呂のいる庭へと裸足で降りて参りました。季節は夏とは言え裸足で庭に下りると、ひんやりと心地良いものであります。父は黙って後を付け、三日月の綺麗な場所まで来ると、薬子様は庭石にお座りになり、庭の池をしばらくご覧になってから父の潜む茂みの方を向き、
「そこにいるのは東宮大夫様(葛野麻呂)でしょう。出てらっしゃいな。月が綺麗ですよ。」
と言われましたので、父葛野麻呂はおずおずと出て参りました。
「あの、皇太子様と何が。」
と言った途端、薬子様はその大きな両目から大粒の涙をお流しになり、
「私、穢れてしまいました。何と子の主人である皇太子様と契ってしまったので御座います。」
と、艶やかな顔を父に向かって真っすぐ上げて言ったのでした。
「何と皇太子様と。」
「私は父(種継)が死に、お家の為と思って好きでもない人(藤原縄(ただ)主(ぬし))と子まで五人もなしたのに、こんなこととなろうとは。私の、私の本当に好きだったのは、葛野麻呂様でしたのに。」
と言って、父に抱きついたのでありました。
「抱いて。そして今夜のことは忘れさせて。お願い。」
「薬子様。私も、そなたのことをずっと前から…。」
 行為が終わり、二人が別れてそれぞれの寝所に向かうと、父の寝所の前に皇太子様(安殿親王)が、にやにや笑いながら立っていたのでした。これには父も驚き、
「こ、皇太子様。」
と言ったきり、言葉も出なかったのです。皇太子様は余計にやにやしながらこう仰ったのです。
「これでもうそなたと我は兄弟じゃのう。お互いこのことは黙っておくことじゃ。」
 皇太子様は声を立てずに笑いながら、廊下を自らの寝所に帰っていったのでありました。
 こうして薬子様は、一晩で二人の男と関係を持ってしまわれたのです。この時父の妻である私の母は前述した様に既に亡く、最初の妻とは関係が冷え切っており、三度目の妻となる方はまだ巡り合っておりませんでしたので、魔が刺したとでも言うのでしょうか、父は薬子様とのっぴきならぬ関係となってしまわれたのでした。ただ、この様な醜聞が陛下(桓武天皇)の耳に届かぬ筈がありません。同じ宮中にある者が、片や皇太子の妻の母と皇太子が恋仲となり、片や遠縁とは言え同じ一族で、しかも五人の子を持つ人妻と交渉を持ち、それが同一人物とはまさに言語道断でありました。まず薬子様を宮中より追放し、延暦二〇(八〇一)年、父(葛野麻呂)を遣唐大使に任命し、宮中どころか日本国からも追い出そうとされたのです。東宮大夫の地位は薬子様の夫である藤原縄主様にして、この様なことが二度と起こらぬ様に致しました。そして皇太子様(安殿親王)はますます陛下から疎んじられ、その反動で伊予親王様はますます目を掛けられる様になられたのです。
 そして余談になりますが、祖父小黒麻呂から造京大夫を受け継いだあの和気(かつての輔治能(ふじの)真人(まひと))清麻呂様が、ついにこの年亡くなられたのです。またこの時清麻呂様の遺言で、自分の建てた神願寺が低地に在って最澄様の山岳修行に適していないので、太秦の近く泰澄大和尚様が開山した愛宕山(山城)に、高尾山寺を建立する様に息子の広世様や真綱様や仲世様に託されたのでした。因みに姉の広虫様は、清麻呂様の亡くなる一か月前に古希(七十)で亡くなられ、清麻呂様に、自分の法事は簡略化して欲しい、と遺言されたと伝えられています。
 
第七章 入唐求法(にゅうとうぐほう) 
この酒はおおにはあらずたいらかにかえりきませと斎(いわ)いたる酒
                         (桓武天皇作 日本後紀所収)