一縷の望(秦氏遣唐使物語)
「今の住職である法海法師様の元に、昔(宝亀二年・西暦七七一年)みすぼらしい格好の老齢の修行僧が訪ねて来たことがありました。この僧は名も告げぬまま客僧としてしばらくこの寺に滞在し、しばらくしてから帰る段になって、ずうずうしくも旅費を乞うたのです。法海様はあまりの厚かましさにこれを拒んだのですが、その客僧は逆に怒りだしましてな。『この寺は見かけは立派だが、真の修行者などいないではないか。こんな寺はいずれ滅び、鬼の棲みかとなるであろう。』と言って出て行ってしまったのでした。法海法師様は気になってこの僧の後を追ったですが、その修行僧は海の上を歩き始め、後を追えなくなって見送っていると、はるか沖の方まで沈まずに歩いて行って見えなくなってしまったそうなのです。あの修行僧はきっと観音様の生まれ変わりじゃ、と法海法師様は悟りましてな、千手観音像を作って祀ったのです。それにあそこには役行者(えんのぎょうじゃ)様が自ら書かれた法華経の写しを納めた最後の場所で、それでここを巻尾山と呼ぶ様になったそうなのです。今は槇尾山と呼ばれておりますがな。さて、着いた様です。」
こうして真魚様はここ槇尾山寺で得度を行い、頭も剃って、真魚様は勿論身を清め新しい着物や袈裟を与えられて私度僧となられたのでした。ただ僧になってからの名前は、まだ空海と名乗るには修行が足りな過ぎると云うことで、教海となさったのでした。その後、以前書かれた「聾瞽指帰(ろうごしいき)」にこの寺に泊って手を加え、「三教指帰」として書き直したのでした。その後様々な所を訪ね歩き、安房の大瀧岳等に行かれて密教の修行に励んだのです。その合間に、日本の仏教で一番密教に近いとされる華厳経の講義を盗み聞きしている時、密教の最大奥義である「大日教」がこの日本にあると云う噂を聞きつけたのでした。その日以来、それがどこにあるか教えたまえと日々祈りながら探し回っていると、灯台下暗しで勤操法師様がその在りかを教えて下さり、それは大和国の久米寺の東塔の下に有ったのでした。これはかって大安寺で勤操法師様が見つけたもので、誰も読まないで放って置かれてあったので、密かに書写してそれをここに隠しておいたものなのでした。教海様は、これらの日本で手に入る密教の経典全てをこの期間に読み耽ったのであります。
しかし、大日経を読めば読む程分らないことが生じてきました。これは経文を読んで教
海様が感じる初めての経験であり、かの僧を驚かせたのです。それはまず、梵語(天竺の仏教用の文語)の発音が正確に分らなくては、この経を理解したことにはならないことであり、また経文の中に出てくる様々な密教儀式の道具がどう言う物でどう使うのかが不明で、その為内容が正確に理解出来ないことでした。そしてさらに、この分らない大日経を
一層深めた金剛頂経と云う経典があるらしいのです。教海様はこれらのことを知る為には、唐へ渡って本場の密教を導師に学ばなくてはならないことを痛感されたのでした。そこで遣唐使となる最低限の資格を得ようと思っていたのですが、無情にも遣唐使船の出発には
間に合わず、東大寺で悶々としていました所、当時大安寺から同じ奈良の高円山(たかまどやま)の岩淵寺に移られていた勤操法師様が珍しく慌てて教海様のいらした寺の講堂に駆け込まれて来られたのでした。教海様は、いつも自信たっぷりなかの僧のその様な姿を見たことがありませんでしたから、釣られて驚きながら思わずこう言ったのです。
「勤操様、どうされたのですか、そんなに慌てて。」
勤操法師様は、まだ荒い息のまま咳込みながらこう仰ったのでした。
「これが慌てずにおられようか。教海、奇跡が起こったぞ。被害のあった方々には申し訳ないが、出航した遣唐使船が沈んだのだ。御坊の受戒は間に合うぞ。それに人員もだいぶ犠牲者が出たので、追加人員を急遽集めているそうだ。拙僧の推薦があれば、御坊の渡唐が適おうぞ。」
信じられない程の偶然が重なり、延暦二三(西暦八〇四)年、教海様の東大寺における得度受戒(前回は私度僧になっただけ)が、実忠和尚様の推薦で行われたのでした。「空海」と言う法名も、この時やっと使われることとされたのです。さらに信じられない程の偶然が重なり、この得度は遣唐留学生となる最低限の資格を満たすこととなったのでした。また遣唐使船に乗り込むことに成功したのは、この時の遣唐大使が私の父(藤原葛野麻呂)だったことも一因と言えましょう。
その一方最澄様は、そのまま山を降りられて次の遣唐使の留学僧に選ばれる為、宮中の内道場で内供奉を務め、父葛野麻呂の陰ながらの推挙もあって、かつて光仁天皇が定められた十禅師にも選ばれたのでした。優秀なかの人が留学僧に選ばれることは、まさに必然であったと言えましょう。しかし空海様に関しては、父葛野麻呂の力を持ってしても、正式に得度したばかりの僧をすぐに遣唐使にすることはいささか無理があったのでした。それにしてもこの時期、二人の僧に対して援助していた父は、本当に大変だっただろうと想像出来ます。
さて話は延暦十五(西暦七九六)年、本当に私事ですが、この年は私(藤原常嗣)が生まれた年であります。父は藤原葛野麻呂、母は菅野池成様の娘で交野(かたの)と申します。菅野様は長岡京・平安京の造営を我ら秦氏と共に担当してきた者であります。私は父の六番目の子で、この後二人の弟が生まれます。母は産後の肥立ちが悪く、私を産んで間もなく亡くなりましたから、その時菅野の家には女手が無く、私は父の母方の家であり、女手の多い太秦の家で育てられたのでした。特に祖父小黒麻呂の妻であった屋守様には実の母の様に可愛がられ、例の秦氏の悲願についてもさんざん聞かされて育ったのです。
またこの時期陛下は新都造営で多忙にも関わらず、相変わらず交野で鷹狩に興じておりました。これはただ単に遊興に耽っているだけでは無く、渡来勢力の多いこの辺りに立ち寄って彼らと交流し、情報交換をしていたのです。政(まつりごと)に対する民の評価や望んでいること、解決法などを聞き出していたのでした。そして、帰りはお気に入りの伊予親王様(母は藤原南家の吉子)が京に新築した舘に立ち寄って一夜を過ごし、藤原との絆も深めていたので、時間を割いてまで立ち寄る価値は十分にあったのです。
都の造営も進んだ延暦十七(西暦七九八)年、藤原薬子(くすこ)様は幼い長女式子様を、皇太子の安殿親王(あてのみこ)(後の平城(へいぜい)天皇)の宮女として入内させたのでした。薬子様は、その後見役として同じく宮中に入ったのです。初めて皇太子様にご挨拶する時、薬子様は乳飲み子を抱えたままその供をし、挨拶を致しました。ある夏の蒸し暑い午後、薬子様がその乳飲み子にお乳をやっている時、突然皇太子様が式子様のことを訪ねてやってきたのです。皇太子様は、やや背が低く痩せている他は良く見ると父親である陛下と良く似ている顔立ちなのですが、病弱な為か顔色は対照的に青白く、父親と同じ切れ長で大きな目は常に見開かれ、血走っている様に見えました。薬子様は急いで衣服を整えてご挨拶申し上げたのですが、皇太子様は式子様の隙を見て、
「今夜私の寝所に来よ。娘にも誰にも言うな。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊