一縷の望(秦氏遣唐使物語)
私が思いますに、「海」は「苦(く)海(がい)」を意味し、「空」も「苦海」も、大乗仏教の祖師「竜樹」様の考えを示しているのではないでしょうか。簡単に説明すれば、「空」とは「『我』の無い状態」を指し、「苦海」とは「輪廻転生の限りない苦しみを海に譬えた言葉。欲界(物質欲)・色界(肉欲)・無色界(物質欲も肉欲も無い精神世界)の三界」をさすのことでしょう。よって「空海」とは、物欲や肉欲かに解き放たれた状態を示すのでは無いか、と思われるのでした。これまで真魚様を苦しめ続けてきた色欲から、かの方が解き放たれたことを意味するのかもしれません。また別な点から言えば、真魚様と云う仏陀をあれ程求めていた秦朝元様や吉備真備様は、遣唐使として文字通り逆巻く海を越えて旅をしたのでした。空海と名乗る真魚様もまた、やがて同じ遣唐使となって海を渡ることを想うと、まことに運命的な名前だったと言えるでしょう。
周りの者は空海様の声に圧倒され、口を利くことも適いませんでしたが、しばらくしてからようやく勤操法師様がこう言ったのでした。
「真魚、いや空海様、お悟りになられたのですね。」
真魚様は黙って頷くと、手を合わせてゆっくりと頭を下げたのでした。
「このままここの近くに在る槇尾山寺へ行き、得度(僧になる為の儀式)を行いましょう。」
と勤操法師様は言って、真魚様と共にそのままその場を立ち去ろうとしましので、慌てて隼麻呂がこう言ったのでした。
「私もお供致します。」
すると勤操法師様が、こう答えたのでした。
「今度ばかりは駄目だ。僧になるのだからな。お前には妻子もおるし、第一その鶻を肩に止まらせたままそんなことを言うのは、罰あたりも良い所だろう。」
「なら、私はこれからどうすれば良いのでしょうか。」
と泣きながら隼麻呂が訴え、鶻の『黒駒』も、
「ぐわぁー。」
と一声鳴いたので、真魚様は笑いながらこう仰いました。
「お主(ぬし)の妻子は讃岐だろう。そこに一度帰ってこちらからの連絡を待て。」
「分りました。でも必ず讃岐へ戻ってきて下さいよ。私はいつまでも待っております。」
と隼麻呂は言って引き下がり、勤操法師様と真魚様は黙って笑いながら頷かれ、また歩み始めたのでありました。運命の悪戯でしょうか、ここから槇尾山寺までは目と鼻の先にあったのです。
置いていかれた一行は実忠法師様の指揮の元動くこととなり、かの法師様はまず秦忌寸(いみき)刀自女(とじめ)ら三一名にこの場の後片付けを依頼してから、茫然としている最澄様に話し掛けたのでした。
「最澄様、御満足頂けましたか?」
「いや、あの者(空海)は秦の援助を受けられるのであろうな。私は失格と云うわけだ。」
「なんの。何も出来なかったのは拙僧らも同じこと。最澄様の条件は、事を最後まで見届けることだったのですから、合格で御座いますよ。それに、神仏習合の密教の必要性はお感じになられたでしょう。」
「あぁ、感じたとも。密教を学べばあの様な技が誰でも出来るのか。」
「いえ、私もあそこまで凄まじいのは初めてで御座います。密教を学び、どれだけの事が出来るかは、その者の才覚で決まるので御座います。」
「そうか、私にその才があるかどうかは、学んでみねば分らぬと云うことか、分った。密教も本腰を入れて習うとしよう。それには唐へ行くしかないな。」
「御明察で御座います。」
「次の遣唐使はいつかな。」
「それはいつかなどと尋ねるのではなく、我らでいつ行くか決めるので御座います。」
「ほう、お主(ぬし)らにそんな権限があるのか。」
「権限は御座いませんが、資金を出すのは我ら秦氏で御座いますから。」
「そうか、では私をそれに乗せてくれそうなのだな。あの空海とか云う僧と共に。」
「はい。」
と実忠法師様が答えられると、最澄様はこんなことを考えていらっしゃいました。『遣唐使船に乗れば、あの僧ともう一度会える。何としても遣唐使船に乗れる様にならねばならぬ。』 最澄様の唐へ行きたいと思う様になる切っ掛けは、当初純粋に密教を極めようと云うよりも、真魚様にもう一度会いたいと云うものだったのです。
長い間世を騒がせ続けた不破内親王は、ここに滅びたのでありました。しかし、ここで鎮めたのはあくまで不破内親王だけであって、早良親王の怨霊ではありませんでしたから、早良親王の祟りとそれへの鎮魂の儀式はまだまだ続いたのです。延暦十六(西暦七九七)
年五月、宮中で怪異が出現したので、金剛般若経を転読致すことがありましたし、その為
同月二〇日、僧二人を淡路島に派遣し、早良親王に霊に謝すと共に、同年六月、諸国明神に奉幣(幣帛(へいはく)・お供物等を神社にお供えすること)し、陛下(桓武天皇)自ら怨霊となった弟に祈祷しなさったそうなのでした。また延暦十八年、大伴是(これ)成(なり)様・本場唐の天台密教
の泰信法師様(唐僧)らを淡路に派遣し、早良親王の霊にまた謝したのです。さらに翌年
七月、早良親王を崇(す)道(どう)天皇陛下と追号して井上内親王様も皇后に戻し、再び大伴是成様が陰陽師や僧達を率いて淡路に向かい、正式な山陵と称すこととなった両者の墓に対し、陳謝致しました。そして延暦二四年、淡路に崇道天皇陛下を祀る寺(常隆寺)を建立致します。また直接崇道天皇陛下に対することではありませんが、同三月、種継暗殺事件で流されていた五百枝(いおえ)王様を召喚して在京を認め、この五百枝王様が亡き大伴家持様に預かった、あの「万葉集」の資料をまとめ上げ整理し、あの時名誉を失った家持様の鎮魂したのでした。同四月、崇道天皇陛下を八嶋陵(奈良)に改葬致し、同七月、その陵に遣唐使の献上した唐からの供物を奉納、同十月崇道天皇陛下供養の為に一切経を書写させたのです。翌年(延暦二五年)陛下(桓武天皇)は、
「弟よ、もう気が済んだろう。」
と最期に言って崩御され、長い祟りと鎮魂の繰り返しに終わりを告げたのでありました。
話は元に戻って槇尾山寺に行く途中、真魚様は勤操法師様にこう尋ねたのです。
「寺が近くで良う御座いましたが、勤操法師様は確か大安寺の方ではありませんでしたっけ。」
勤操法師様も、歩きながらお答えになられました。
「そう槇尾山寺は実は大安寺の山岳修行僧用の寺なのです。また、それに真魚様が得度するにはふさわしき由緒ある寺なのです。」
「由緒とは?」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊