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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 ナナイに最低限触ってはいけないものと、冷蔵庫の中から簡単に食べられるもの、水道やトイレ、電気の使い方、この世界の時刻の刻み方、それに夏芽の今日のスケジュールを伝えると、その後は情報収集に励んだ。
 夏芽とナナイが思いついた問いをぽんぽんと口にし、ナナイがその答えを得る。そうしながら、夏芽はツイッターやブログ等で同じような現象を起こしている人がいないかを探していた。
 わかったのは、彼らは元々いた物語の世界から「抜け出してきた」のだということだ。このまま戻れないと、その世界、つまりは物語から彼らは消えてしまうらしい。このような現象は今回が初めてではないようで、主役級のキャラクターたちがいなくなってしまって、作者は何を書いていいのかわからなくなって打ち切りになってしまったり、人気キャラクターが不自然に退場したりするようなことになっていたようだ。勿論、戻ることができれば、何事もなかったかのように物語は続く。ただし戻った彼らは、この世界で確かに数日を過ごしている。
「今まで、戻らないでこの世界に留まった人は、本当に極僅かだ。割合で言うと、せいぜいが百人に一人ぐらいってところだね」
 もしかしてと、今まで自分が携わった中で、人気キャラクターが明らかに不自然な形でフェードアウトした作品の名前を出してみると、ナナイは「彼女は今どこにいる?」と問う。そして返された答えは「トウキョウに住んでてアキハバラってところで働いている」。
「……なんの職業?」
「メイドキッサ? の店員だって」
「……人気、あるだろうね。あの声とあの顔なら」
 そういえばそのキャラに声をあてたのも、リーネを演じた市河みなみだったな、とふと思い出した。特に親しいわけでもないので詳しくは知らないが、前クールの番組の打ち上げを池袋でやったとき、新宿方面へ向かう山手線で帰っていくのを見たような気がするので、多分彼女がいるのはみなみのところではない。
「帰るケースとこの世界に残るケースがあるんだね。その判断時期と条件は?」
 そう問うと、ややあってナナイは答えた。
「リミットは五日間。それを超えて条件を満たさなければ、帰ることになる。条件は」
 ああ、もしそれがこの世界の人間にも適用されるなら、
「こちらに来た者が元の世界を捨ててでも、ここに留まりたいと思うこと。すべてを捨てさせてでもここにいてほしいと、この世界の誰かに望まれること、だってさ」
 僕はここにはいられないな。
 そんな夏芽の思いは、声になることはなかった。

 その日最初の現場は、つい先日好評のうちに終わったアニメの、DVD特典ドラマCDの収録だった。このアニメの最終回の収録を、夏芽は共演者たちと共に迎えることはできなかった。その直前に入院する羽目になったからだ。出演自体は別録りで間に合ったけれど、皆には迷惑をかけてしまったし、この面々全員が揃ったのは特に夏芽にとっては久々という感がある。
 それでも、2クール付き合ったレギュラーメンバーが勢揃いしたこともあり出演者の息は合わせる必要もないくらいぴったりで、順調にさくさくと収録は進んだ。予定よりわずかに早く休憩時間になったので急いで廊下に出た。同じ建物の別のスタジオで、先ほど支倉は収録を終えて、今は空き時間になっているはずだ。留守電をチェックすると、エレベータの前で待っていると吹き込まれていたので、そちらへ向かう。大柄な支倉はよく目立った。
 夏芽の足音に気付いたのか、ぼんやりと観葉植物の植木鉢を眺めていた支倉の顔がぱっと上がった。その整った顔に満面の笑みを浮かべると、水筒を片手に駆け寄ってくる。
「お疲れ様です、降森さん、早かったですね!」
「うん。ごめんね、待たせちゃって」
「いいんです。次の仕事の準備してましたし。飲みますか?」
 いつも通り人を安心させる穏やかな笑顔で、支倉はお茶を差し出す。ありがとう、と礼を言って一口含むと、やはり大型犬を彷彿とさせる様子でこちらを上から覗き込んでいる。支倉の実家御謹製の黒豆茶には独特の甘みがあって、夏芽がそれをとても気に入っているのを彼は知っている。実家から送られてくれば必ずお裾分けしてくれるし、現場で会ったら水筒に入れて常に持ち歩いているそれを分けてくれる。必ずこのお茶を持っていくのは彼にとってはゲン担ぎのひとつであるらしく、それは夏芽や仲の良い同業者の家に泊まった日でも決して欠かさない。今日については、夏芽の家から支倉は最初の現場に直行しているので、出かける準備をしている間に夏芽が淹れてあげたものだ。何の加減かわからないけれど、ほんの少しだけ、支倉が淹れたものと味が違う気がする。何を調整しても、何の条件を変えても、どうしても支倉が淹れてくれる時の味は、再現できないでいた。
「おいしいね」と言えば、あるはずのない太くてもふもふした真っ白なしっぽがばたばたと騒々しく揺れるのが見えた気がした。やっぱり、子どもの頃飼っていた犬に似ている。
「……あの後、何かわかりました?」
 コップが空になる頃、小さな声で、支倉はそっと問うてきた。もし人に聞かれて正気を疑われても困る。今日は使われていないはずの部屋へ続く角に曲がってから、夏芽は言葉を続けた。
「まず、ああいうことが起きているのがうちだけじゃなさそうなことは確認した。ツイッターとか2ちゃんを見たけれど、それらしいことを言っている人が結構いるよ。勿論、本気にされてないけど」
「まぁ普通、信じないですよね」
「僕だって、支倉君も一緒じゃなかったら、絶対自分の幻覚だと思っていると思うよ。それに、ただでさえいつもから『俺の嫁が画面から出てきた』の『二次元に行きたい』の、俺嫁妄想書いてる人だの多いからね」
「そうなんですか?」 
 夏芽は頷いた。支倉は子どもの頃からの結構なアニメオタクだが、IT機器全般やインターネットについてはかなり疎い。ネットラジオにゲストで呼ばれたときも、普通のラジオだと思い込んで配信当日にどこのラジオ局を回しても聞こえない、と夏芽に電話を寄越したほどだ。そのラジオだって、ボタンひとつで簡単に聴けるよう、夏芽が設定してあげたのだ。パソコンも持っていない。携帯は一応持っているが、高齢者用の簡単携帯を使っている。しかしここのところ今使っているものが不調で機種変更を検討しているらしい。夏芽がスマホをいじって遊んでいる手元をじっと見つめていたこともあるので、それもいいかもしれないとも思ったが、母艦になるためのパソコンを持っていないので薦めなかった。パソコンが必要だと知らずにMP3プレイヤーを買ってしまい、困った顔で大量のCDとプレイヤーを持って夏芽の家にやってきたこともある。だから夏芽は、彼の音楽プレイヤーに入ってる曲を全て把握している。
「うん。ただね、今朝あたりから同時多発的に急増している書き込みは、質が違うんだ。喜ぶより先に、驚いている、混乱している……。ただの妄想だったら、そんなこと書かないよね」
「ですね」
 支倉は頷く。夏芽は上着のポケットに入れた自分の右手の親指に、人差し指の爪を突き立ててみた。ぴりと鋭い痛みが走る。やっぱり、夢じゃない。自分だけならともかく、支倉も同じ人物に会ったのだ。