この心が声になるなら
本の形になっていない、彼の頭に溢れる物語を、夏芽はいくつも聞いたことがある。そのどれもが、出版されればすぐにコミカライズやアニメ化のオファーが来そうなぐらいに面白い。
だから、きっと残り一巻となった彼らの物語は、きっと最高にわくわくする結末を迎えるのだろう。そう思ったけれど、夏芽は口に出す直前で思いとどまった。彼らにとっては、それは人の描く物語ではなく、自分自身で作った未来、人生なのだ。
それはとても釈然としない感覚で、でも頭では理解できていて、『知って』いてもピンとこない、というナナイの言葉が頭に響く。思い出したその声が、普段の自分の話す声とは違っていても、自分の演じるナナイの声と寸分違わないことに、まだ慣れられないでいる。
「僕の主観だけど、いい奴だと思う。彼女さんのことも大事にしてるみたいだし」
これぐらいなら、話しても大丈夫だろう。二十九歳の売れっ子作家だ、恋人ぐらいいてもおかしくないし、少なくとも彼の側としては、それはなんのスキャンダルでもない。
「地元も年も、この街に引っ越してきた時期も一緒で……仲良くさせてもらってるよ」
売れたきっかけも一緒だから、と言おうとして、しかし躊躇った。夏芽にとってはナナイを演じたこと、トウヤにとっては、彼らの生きる世界を描いたこと。だけどナナイたちにとっては、自分たちの生きてきたことに他ならないから。
(しっくりこない、としか言いようがないな、これ)
まだ何もわからないようなとてもとても幼い頃に、読んでいた物語が、観ていた特撮番組が、現実のものではないと気付いたときの感覚に、それは少し似ているような気がした。
ナナイは、どんな思いを抱えているのだろう。想像もつかなかった。演じてみればわかるのかもしれない。けれどきっと演技をやめた瞬間に、その感覚はこの手から消えてゆくのだろう。ナナイに限らない、いつもそうだ。それゆえに「取り憑かれている」としか言いようがない。どうしてこの声が出るのか、この表情になるのか、この仕草になるのか、この心になるのか。事前の役作りは勿論周到にするけれども、実際に役に入っている間は考えることなんてない。その間、夏芽はその役柄に「なる」。その人物としてそこにいて、考え、動き、話す。そして終わった瞬間に、それはするりと夏芽の身体から抜け出していくのだ。後には何も残らない。
「きみみたいなことは、他にもこの世界で起きているのか? きみ以外にも、この世界に現れた、その……物語の中の人は、いるのか? たとえば、市河みなみちゃんのところにリーネがいたりとか」
「……起きてるね。ボクだけじゃない。百八人、いる。ただ、きみらの世界の『物語』の数から考えて、それが多いと言えるかどうかまではわからないけど。イチカワミナミのところにリーネはいない。イチカワミナミ、がリーネの声の持ち主なのか? ボクにとってのナツメのような。……あ」
ふと、はっとしたような表情に変わって、ナナイは夏芽を見た。
「ねえ、ナツメ。なんでもいい。何か『問い』を発してみろ」
「え?」
「なんでもいいから早くしろ」
急に言われても、質問なんて出てこない。
「え、えと」
慌てた頭で、口から転がり落ちたのは、
「支倉君の好きな……一番好きな食べ物は、なんだろう」
一瞬口からぽろりとこぼれ落ちかけた問いを慌てて遮って、夏芽はそう言った。
「鍋焼きうどん、だって。なにそれ? そんなもの、本人に直接訊けばいいだろ」
「あー、うん。そういえばそうなんだけど、支倉君ってなに作っても美味しいって言うからさ」
彼の切れ長の目を見れず、どこかしどろもどろになりつつも、夏芽はなんとか平静を保った。聞いてどうするんだ、好きな人はいるのか、いるとしたらそれは誰なのかなんて。そんな夏芽の様子をちらりと一瞥し、しかしその表情以上に、ナナイの視線は夏芽の口元と喉をいったりきたりした。
「やっぱりそうだ。お前の声で、いいんだ」
「なにが?」
ナナイの視線が、夏芽の目に向けられる。真正面で見るとこんな顔に生まれてこれたら人生違ったのかな、と改めてつい考えてしまうほど、完璧に整った造形だ。
「代行者としての能力の鍵が、ボクの場合は声なのは、知っているだろう? シュトルは右腕、リーネは心臓で」
「ああ」
ナナイの声で問うこと。それが、能力発動の条件だ。同じようにシュトルは右手で触れたすべてのものを腐らせ、リーネの心臓から送り出された血液はどんな傷も病も癒す。代行者が能力を行使するには、その者の身体の一箇所が、絶対に必要になる。例えばナナイが風邪を引いて声がまったく出なくなってしまえば、声が元通りになるまで能力は使えない。
「恐らくシュトルの声の持ち主の右腕とシュトルの右腕は別物だし、リーネの心臓とえーっと、ミナミだっけ? 彼女の心臓も別だ。ボクの身体とお前の身体も、違う。だけど、ボクの声は、お前の声だ。だから、お前の声でも、ボクはその答えを知れる」
夏芽ははっとなった。そう言われてみれば、妙にサクサクと会話が進むと思った。
「変だと思ったんだよ。ボクが問うより先に答えがわかるからさ。シュウゴの問いの時はボクが言わないと駄目だったけど、ナツメの問いなら、ボクが問うのと同じことになる」
「僕の問いでも、きみが知るの?」
「そうだ。言っただろ、ボクとナツメは声は同じだけど、体は別物だし、お前はボクじゃない。鍵は声でも、『知る』のはボクだからだろ」
「……なるほど」
ナナイの説明は明快で、状況はすんなり飲み込めた。
「つまり、きみに尋ねようと思わなくても、僕が不用意にうっかり妙な疑問を口にしたら、きみがその答えを知っちゃうわけだ」
「そうそう。だからボクは普段独り言は言わないように気をつけてるんだよ。もう大変大変。知りたくないことなんて、いくらでもあるからね」
そう言って両手を芝居がかった仕草で広げて、小さくため息をついて見せる。
「多分、ボクとお前が離れていても、ボクがこの世界にいる限り、そうなる。気をつけてくれよ? 寝てるときとかにわけのわからない答えがぽんぽん降ってこられても困るんだ」
ナナイはにやりと笑う。つまりはそれは、具体的な答えを伴う問いかけをすれば、どこにいてもナナイに夏芽の言葉が筒抜けになる、ということなのだろうか。
ふと、マネージャーにナナイ役の降板の噂について、問いたくなった。彼女がなんと答えようと、そしてその場にいなかろうと、その本当の答えはナナイの知るところとなる。
(そうか、相手が嘘ついたかどうかまで、わかるんだ)
すべての真相がたちどころに知れてしまう。彼の生きるそれは、一体どういう世界なのだろう。望めばあらゆる答えを手にすることができる。たとえそれが、知らないほうが良かったことであろうとも。
自分にそんな力があるとしたら、どうするだろう。そのとき、知らないことを選ぶのか、知ろうとするのか。
ファンタジー的な世界観であることよりもなによりも、その決して自分の知りえない感覚のほうが、自分とナナイとの間に存在する、世界の違いなんじゃないだろうか。想像しようとして、できなかった。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい