この心が声になるなら
ナナイに見えるように二本の箸を器用に動かして見せると、横からすっと支倉の手が伸びた。
「こうやって持つんだよ」
さっとナナイの形の良い手を掴んで、指に箸を正しく握らせた。
ナナイの細い手に支倉の白くてややふっくらした手が重なるのが目に入って、そんなことに妬きかけた自分に対して苛立ちが募った。世話を焼いただけだ。自分だって、例えば後輩とかにあの程度の触れ合いはなにも気にしないでする。それに、
(恋人でもなんでもないんだ。妬く権利なんて、僕にはない)
心の中だけで溜息をつきながら、顔に浮かべるのはいつも通りの穏やかで柔らかい笑顔。支倉の手を借りて基本的な動きを覚えると、それでもややたどたどしい動作で、ナナイは菜の花のお浸しを口にした。少しだけこだわって選んだ桜柄の小鉢の中のお浸しが減っていることに、確かな現実感があった。
「どうかな」
「美味しいね」
即答で返された言葉に、夏芽の頬がほっと緩んだ。すると支倉がずっと身を乗り出す。
「ねー! 本当に降森さんのご飯、最高に美味いだろ? 絶対世界一だと思ってるもん、俺」
その様子は嬉しそうで、まるで自分のことのように誇らしげに見えた。
「ありがとう、嬉しいよ。でも世界一って、僕の料理なんて独学の男の料理だよ?」
「いいんです! 俺は世界一降森さんのご飯が美味いと思ってるんですから」
「そういうことはお母さんか彼女に言ってあげなよ」
苦笑しながらそう言うと、支倉はうう、と困ったように唸ってから、
「彼女なんてもう五年はいないって、降森さん知ってるじゃないですか。そりゃ親のご飯は大好きですけど、でも上京してから一番食べてるのは降森さんのご飯だから、親のご飯と同じぐらい好きなんですよ! 降森さんは俺の東京のお母さんみたいなもんです! だから、そんな風に否定しないでくださいよ」
まっすぐな目をきらきらと輝かせてそんなことを言われてしまって、夏芽は嬉しいと同時に切なくなった。
(お母さん、か)
それだけ身近に思ってくれてる、というのは純粋に嬉しかった。たとえそれが、美味しい食事で良く食べるわりに料理の苦手な後輩を上手く釣った餌付けか、デビューして間もない時期にたまたま現場で出会いなにかと世話を焼いてあげたことによる刷り込みのようなもの、それこそ親に対するのと同じような気持ちだったとしても。
けれど、それは同時に、やっぱり恋愛対象として見られていないことをも突きつけられているようで、ずきんと胸の奥が痛む。わかってはいる。世の中の大多数の人間は、同性に対してそういう感情を抱かない。異性でも同性でも同じように愛してしまう自分は少数派だ。今の関係は心地良い。慕ってくれる後輩である彼を純粋に大事に思う気持ちもある。だけど、この距離を苦しく思う。近づきたい、自分とは違う大きな身体に触れたい、触ってほしい――
いっそこの心の中をぶちまけてしまえたら楽になれるのだろうか。支倉に限って、それを誰かに言い触らして、二度とこの業界でやっていけないようなことにはしないだろう。例えその返答が、嫌悪と拒絶であったとしても。でも、
「あー、今日のもやっぱりすっごい美味い! もう俺毎日降森さんのご飯食べたい、降森さんちの子になりたいです!」
そんな馬鹿みたいで、幸せで、胸の痛くなるような言葉を、この笑顔を失いたくなんてないから、そんなことはできるわけがないのだ。
朝一番の収録がある支倉を見送り、洗い物を済ませた。時々支倉の手を借りながらも、ナナイも彼のいたであろう物語の世界観とはだいぶ趣の異なる朝食を綺麗に完食した。
「この国ではわりと普通の朝ご飯だったんだけど、どうだった? 口に合わなくなかった?」
尋ねれば、ナナイは少し間を空け、「世界一かどうかはともかく、確かに美味しかったよ。あの茶色いスープ、なんて言うんだ? ああ、ミソシル。あれは気に入ったな」と答えた。もし彼が本当にナナイであるなら、聞かれたことは必ず答えなければならないし、嘘もつけない。こんな状況でこれだけ得体の知れない相手であっても、料理の味を褒められるのは嬉しい。
「そうか、じゃあ夜も作るよ。それとも、折角なら別のもののほうがいいかな? 味噌汁以外も、きっときみにとっては珍しいものだろうから」
嬉しくて、まだ何者だという証拠もない相手の夕飯を作る前提で話をすると、しかし、
「お前に任せるよ、ナツメ。シュウゴがお前の料理はなんだって美味しいって褒めちぎっていたからね」と、彼は言う。呼び捨てにできるぐらい仲良くなったのか、と、またもどろりとした感情が浮かびかけたが、考えてみればあの作品の世界観においては、親しかろうとそうでなかろうと、相手のことは下の名前で呼んでいた。それに夏芽自身、同い年以上の同業者たちには大体下の名前か、それに由来する「ナッちゃん」或いは「なっち」という愛称で呼ばれているし、後輩であっても優衣のように「ナツメさん」と呼ぶ者も多く、苗字で呼ばれることは稀だ。苗字にさん付け、というスタンダードなはずの呼び方で自分を呼ぶ支倉は、むしろ珍しい。
「……それにしても、ボクは物語の登場人物なのか。たとえそうだって『知って』いても、ピンとはこないね」
淹れてやった煎茶を、これまた覚束ない手つきで湯飲みを掴んで口にしながら、ナナイはぽつりと呟いた。
なんと言っていいかわからず、夏芽は無言で茶菓子を出してやった。何日か前に支倉が袋単位でおすそ分けしてくれた諸越だ。指で掴みあげたナナイは、その固さに驚いたのか「こんなもの、食べれるのか?」と呟き、ややあって、口に放り込んで目を丸くした。見た目と固さに反して口に入れるとすぐにふわりと消える小豆の粉の食感を気に入ったらしかった。
「ねぇ、ナツメ。カラカミトウヤって、どんな人間なんだ?」
二つ目のもろこしを食べながら、ナナイは夏芽にそう問うた。
「……全然実感できないけど、ボクらの物語の作者なんだろう?」
「どんな人、か」
こういった、確定した答えのない曖昧な問いの答えは、ナナイの「全知」でも知ることができない。「どんな人」かはあくまで主観に拠るからだ。これが例えば彼に犯罪歴はあるのかだとか、今までに交際した恋人は何人いるかとか、そのうち何人から恨まれているかとかのようなものであれば、すぐに回答を得ることができるのだが。或いは、今の恋人が誰なのかも。
(ナナイが本当にナナイなら、)
聞いてしまおうか。ふと、そんな誘惑が頭を擡げて、心の中で首を振る。ナナイは知ることができるし、答えてくれるだろう。全知の代行者たる彼は、人間の問いを拒絶することができない。だけど、それをすることは、彼とその婚約者への裏切りだ。本名は「融」なんて言うくせに、いまひとつ融通の利かない彼が、彼女を守るために自分にすらその名を隠している。どんなにそのことが寂しくとも、夏芽は彼のそんな真面目さを信頼している。だから、それはできない。してはいけない。それをやってしまったら、自分で自分を許せなくなるだろう。
「面白い奴だよ。ものすごいお喋りなんだけど、本当に頭が良くて、何時間話を聞いてても飽きない」
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい