この心が声になるなら
冷凍庫から凍らせたご飯を取り出して量を確認する。なんとか三人分に足りるはずだ。昨日の夜からうるかしておいた分は二人分しかなく、今からもうひとり分追加すると支倉の仕事に間に合わなくなってしまう。客に冷凍していたご飯を出すのはあまり気分がいいものではないが、やむをえない。元々もちもちした米だから炊き立てには劣るが普通には美味しいだろうと心の中で言い訳をしつつ、電子レンジにそれらを放り込んだ。ここ四年ぐらい、ほとんど米を買った記憶がない。支倉が実家から米が届くとお裾分けしてくれるからだ。農家が身内で食べる用の完全無農薬のあきたこまちは、ほのかに甘く、もっちりとした食感があり、今更もう店で他の米が買えない。そう言ったら、やっぱり嬉しそうに笑いながら、「俺は降森さんのせいで、北海道産以外の芋とほっけを食えなくなりました」と返されたけれど。ご飯をレンジで解凍しながら菜の花のお浸しを作りつつ、ソーセージを焼いた。
視覚と嗅覚の情報を基に、脳が自動で処理をしているように、料理中手は勝手に動く。その間、夏芽は現状をなんとか把握しようと、思考を回した。
ナナイは、Seven Godsの登場人物だ。殻神トウヤが書くこの物語は、今となっては稀少となってしまった比較的正統派の異世界ファンタジーだ。舞台は七柱の神と、その能力を神に代わって行使する七人の代行者の存在する世界。代行者にされた者はその力を自在に操ることができる代償にいくつかの義務を負い、人としての生と関係性を失い、家族を含めた周囲の人すべてから、人であった頃のことを忘れ去られる。その恩恵をより多くの人に届けるためひとところには留まることができず、常に転々とし続けなければならない。人々の利益のために無理やり代行者にされてしまった孤児の少女リーネと、彼女を忘れたくないがために自ら別の神の代行者となった幼馴染の少年シュトルが、リーネを人間に戻す方法を求めて旅に出る。
夏芽の演じたナナイは、主役カップルであるシュトルとリーネが旅の途中で出会う代行者のひとりだ。その能力は「全知」であり、彼は口にした問いの答えをその瞬間に知ることができる。その代わり、彼は人に問われたら、必ず答えを告げなくてはならない。知ることのできることは、現時点で確定していることに限り、未来のことは知ることができない。また、何について問うているのかが曖昧な問いかけや不確定なこと、例えば「自分はこれからどうすべきか」などについても答えは得られないが、「自分を恋愛対象として好きな人間が何人いるか」「このエリア内のどこを掘れば水脈に当たるか」、果ては「この瞬間の宇宙の広さはどれぐらいか」など、現在時点での事実であれば、決して知りえないことであっても知ることが出来る。シュトルたちは代行者をやめて人間に戻る手段を聞くために彼を探し当てるのだが、ナナイは彼らが「代行者であって人ではない」ことを理由にその問いに答えず、彼らをからかうようにして去ってしまう。しかし決して諦めないふたりに興味を持った彼は、その後も彼らの前に姿を現し、その様子を見守ったり、時にちょっかいをかけていく、トリックスター的な役回りだ。
容姿も、性格も、口調も、そしてなによりその声が、ナナイだった。あの声を出してああいう風に喋れる人間が自分以外にもいるのなら、自分の存在価値の何割かはなくなってしまう。気持ちがぐらりと沈むけれど、調理を続ける手は止まらない。それ以外に自分に取り得らしい取り得といえば料理ぐらいだけれど、家庭料理としては一級品だという自負はあるが、プロの料理人だったらこれぐらいのものはいくらでもいるだろう。
落ち込んだ心をとりあえず横に置き、あれが本物のナナイだとすれば、と考える。それでも、そんなことが現実的に考えてありえるとは思えなかった。自分ひとりなら、まだ幻覚ということで理解はできる。ここのところ自分の心を占めていた不安のうち、支倉のこと以外はほとんどどこかでSeven Godsが絡んでいる話だ。ある意味でナナイに関係のあることばかり考えていたといえないこともない。だけど、自分の心労が見せた幻覚だというなら、支倉に見えるはずがない。声が聞こえるはずがない。だから、あれが何者であるかはともかくとして、間違いなくここにいることだけは確かなのだ。幽霊でもないだろう。あとなんとなくだけれど、仮に霊感なんてものがあるとして、どちらかというと支倉はそういうのが鈍そうに見える。
(やっぱり彼の言った通り……『物語のキャラが一番縁の強い人のところに現れ』ている、ってことなのか? でもそんなこと、ありえるわけ)
ない、とは思う。けれど、どんな考え方をしても、必ず何処かに「ありえない」が残る。
彼がなんらかの精神的な異常で自分をナナイだと思い込んでしまったという場合。百歩譲って夏芽の実家の住所や支倉の従弟の名前は興信所などの手段を使えば調べ上げられるとして――ただ、その質問を想定すること自体が、ほとんど不可能ではあるけれど、あの世界で代行者の証であるうっすらと光を放つ髪と、あの声がありえない。顔は整形できるとしても、声を思い通りに作り変えることは不可能だ。
夏芽の心が見せた幻だとしよう。見た目と声、実家の住所を知っていたことはそれで説明がつくが、しかし支倉と会話をしていたこと、夏芽は知らないの支倉の従弟の名前を答えたことが、ありえない。ただしこの場合、ナナイと話していた支倉も幻だったと考えれば、なんとか話は成立する。それでも、荷物はリビングのソファに置きっ放しなのに彼の姿が見えない時点で、さっき珍しくベッドから落ちた自分を心配して飛んできてくれたことは夢ではなさそうだ。
あれをナナイだと認めよう。見た目も声も、夏芽や支倉しか知りえない情報を知っていたことも、これですべて解決する。ただひとつ、ナナイがここに存在すること自体が、ありえない。
どの「ありえない」を受け入れるか。夏芽の直感は、三つ目の可能性だと訴える。理性は、それだけはありえないと思うのに。
電子レンジがピーと無機質な音を立てた。開いて覗けば、凍っていたご飯はちょうどいい塩梅に温められている。夏芽は思考をひとまず止めて、火にかけられた味噌汁にとき卵を掛け、ふわりと仕上げた。
「朝御飯、できたよ」
自分の寝室のドアを開けば、やはり幻ではなかったのか、そこには支倉とナナイが談笑する姿があった。支倉は人と打ち解けるのが早い。デビュー当時の様子を思うと、あれからたった五年で随分変わったものだと思いつつ、どこか寂しい。大家族の末っ子として育った彼の甘え上手さを思えば、きっとこっちのほうが素に近いのだろうけれど。声をかけると、向かい合っていた顔をぱっと上げた。
「いただきますっ」
「ボクの分もある? そう、ありがとうね」
夏芽の答えを聞く必要はなく、ナナイはすっと立ち上がった。どうやら、普通に食べるつもりらしい。
人に料理を振舞うのが好きな夏芽の部屋の食卓は、一人暮らしの割りに大きい。全員分の朝食を並べると、支倉の瞳がきらきらと輝いた。対照的に、ナナイは箸とお椀を交互に見てきょとんとしている。
「お箸使える? きみの世界にはなかったよね」
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい