この心が声になるなら
二、三時間ほど、話をしたらしい。大して酒に強くないトウヤはいつしか酔い潰れ、朝方目を覚ました時には酒も食器も片付いていて夢だと思ったそうなのだが、ただ、体には間違いなくアルコールが残っていたのだという。そして、酒は減っていた。
「しかもその時書いてた原稿夢のはずなのにちゃんと書きあがってんだよ。内容一字一句間違いなく同じなんだ」
まさか原稿を書いているうちに、妄想に飲み込まれて幻覚を見たのだろうか。はっと気がついて、原稿が出来ているのに気がついたとき、トウヤはぞっとしてひどく不安になったらしい。
でも、夢でも妄想でもあいつと話してお前に会いたくなったのはマジだから、と彼は言った。
丁度Seven Godsの最終巻の序盤を書き始めていた彼の前に現れたナナイは、とても真摯な様子でトウヤに礼を言ったのだそうだ。自分たちの物語を書いてくれてありがとうと。そして、同じぐらいかそれ以上に、夏芽に感謝しているのだと。
『生み出してくれたのがお前でも、ボクに命を吹き込んでくれたのは、ナツメなんだ。あいつがこの声をくれなかったら、ボクはこういう人間にならなかったと思う。頼むよ殻神トウヤ、今後何があっても、ボクに声をあてていいのは、ナツメだけだ。もし変えたいなんて話が出たら、なんとしてでも止めろ。この声じゃない声で話すボクなんて、ボクじゃない』
はっとした。あの話は結局トウヤにはしなかったはずだし、ナナイにも言っていない。だから、そんな事情もおそらく知らずに、ナナイはそう言ってくれたのだ。
胸の奥から、何かが込み上がってくる。それは温かくて、熱くて、それが何であるのかを夏芽は知らない。けれど、それはきっととても大切なものだということだけはわかる。
「最初はさナナイはもっとずっと嫌な奴で途中で死ぬはずだったんだ。何考えてんだかどういう奴なのか俺にもさっぱりわがんねかったし。でもお前の声聞いた瞬間にぱっと頭の中が開けたみたいだった。やっとこいつが何考えて何したくて生きてるのかわかったし全然違う物語が見えた。今のナナイとSeven Godsを作ったのは俺じゃねえ。お前なんだよナツメ」
夏芽の答えなんか、トウヤは待っていない。そのまま話し続けてしまうのは彼の常人より速過ぎる思考のせいではあるのだけれど、それができるのは確信があるからなのかもしれない。いつだって素直に伝えるための言葉を惜しまない彼は、その伝えたいことを夏芽がちゃんと受け止めてくれていると信じることが出来ているから、話し続けられるのかもしれない。
「俺さSeven Godsが書けて本当に良かったと思ってるよ。あんな経験しなかったら俺にとって物語書くのはほんとにただ自分の妄想から自分とこ守るための手段でしかなかったんだべなって思うわ。俺に物語作る凄さとか面白さだとかを気付かせてくれたのはお前だよ。お前のおかげで生きてんのが怖くねぐなった。作家として生きていこうって前向きに思えたのもそれでいいんだって思ったのも仕事の人とかともちゃんと会うようになって……みなみんとこ好きんなって結婚することになったのもさ、全部お前のおかげだ。本当に本当にありがとう」
「……トウヤ」
笑って、けれど、真摯に言葉を伝えてくれる盟友に、胸が詰まった。名前を呼ぶ声が震えた。
「だからさお前に一番に報告しようと思ってまだ親にも言ってないんだぜ。ナナイと話してたら一刻も早くお前に言いたくなってなんとかお前と親にだけでも報告できないかってみなみに電話したっけ『誰にも言うなって言ったけどまさかそんなところにまで言ってないとは思わなかった』って言うんだもん。もっと早く聞いとけばよかったわほんとさ」
本質的にきっと、「降森ナツメ」と「殻神トウヤ」はよく似た存在だ。
抱えた人としてのどうしようもない欠点をなんとか埋め合わせる手段を手に入れて、生きる為に身につけたそれは生計を立てる道となり、社会で生きるための名前を手に入れた。
いつか妄想にすべてが飲み込まれてしまうというトウヤの恐怖は振り払われたけれど、夏芽にとっての世界は恐ろしいもののままで、そこに寄り添い、その欠陥ごと夏芽を受け止めてくれたのは支倉だ。けれど、トウヤと同様に生きる為に開花させた力が仕事になった自分にとって、それがただの自分を守るための手段だけではなくなったのは、トウヤの言葉があったからだった。今日もらったのとよく似た言葉を、泣きながら彼がくれたとき、夏芽は役者としてなら生きていける、少なくとも役者としての自分には価値があると初めて思ったのだった。
そしてそれがあったからこそ、きっとあの日夏芽は、支倉に声をかけた。そして殻神トウヤが生み出し、降森ナツメが命を吹き込んだナナイに半ば突き落とすかのようなかたちで背を押され、長い長い間絡めとられていた呪縛を振り払い、なくしていた言葉と、見失っていた心を取り戻し、支倉に想いを告げることができた。「作家の殻神トウヤ」であることに希望を持った北川融が、市河みなみという伴侶を得たように、降森夏芽もまた、彼がくれた「役者の降森ナツメ」としての前向きな確信のおかげで支倉修吾と出会うことができたのだ。
こみ上げる熱いものが、感謝と歓喜に似たものであることに漸く気付いて、その場ではなんとか堪え、家に帰ってから夏芽は心のままに泣いた。トウヤの前で感情を顕にすることはできなかった。彼のことは信頼しているけれど、長い時間をかけてがちがちに固まってしまった心を、習慣や癖を溶かしていくのには、長い時間が必要なのだろう。トウヤがみなみと共に生きることを願ったときに、まだ誰にも話すなと言われたらそれをかたくなに守り、盗聴だなんてほとんどない可能性を心配して自分を自宅に呼びつけてしまうのと同じように。あの時、大事なことだから直接会って言いたかったという思いもあったのだろうけれど、盗聴されて十分な準備のないままみなみとの関係が暴露されてしまう可能性も本気で心配していたはずだ。
支倉が夕方やってくる頃になっても夏芽の目は兎のそれのように真っ赤で、支倉はそれを目にするなり買い物袋を取り落とすほどに慌てていたが、夏芽は違う、嬉しくて泣いてたんだと言って、自分から支倉にそっと身を寄せた。
ここまでの自分が辿ってきた道がひとつでも違っていたら、今この温かい場所には辿りつけていないのだ。
「僕は本当に、幸せ者だなって思ったんだよ」
空っぽなんだと思っていた自分には、大切なものが、いくつもちゃんとあったのだ。大切な人も、大切な作品も、大切な役柄も。
その大切な作品の最終巻は、明日、書店に並ぶ。背中を押してくれた彼の、彼ですら知ることのできない未来が、そこにある。楽しみにしていてくれと結婚式でトウヤは笑っていた。
表しきれないほどのありがとうと、これからもよろしく。トウヤの紡いだ物語と、彼と夏芽の出会いから生まれたナナイが繋いでくれたたくさんの奇跡への感謝を、夏芽はスピーチに込めた。いつだって素直に感情を見せるトウヤが少しだけ恥ずかしそうに笑う顔を、初めて見た。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい