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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 徐々に街路樹の葉の色も変わりだした、月の大きな夜。タクシーを降りれば、一人暮らしのはずの自分の部屋に明かりがついているのに気付いて、夏芽はほっと緊張が緩むのを感じた。
「ただいま」
 待っていてくれる人がいる。嬉しいのに、気を抜いたら今日一日の疲れが出てきてしまったのだろう。声にそれが滲んでしまう。彼の前では、できる限り幸せそうでいたいのにと思って、しかしもうそんなことをしなくてもいいのだと、無理をしないほうが喜ぶのだとは知っていた。それでもまだ、できる限り何事もないように振舞おうとする癖は完全には抜けてくれなくて、それを支倉は「好きな人の前で格好つけたいのは仕方がないことですよ」と笑ってくれる。
「おかえりなさい! お疲れ様でした」
 ほとんど無意識に後ろ手にドアを閉めて鍵を掛けると、玄関で待っていた支倉の穏やかな笑顔に迎えられた。合鍵は渡していたけれど、今日来る約束はしていなかった。きっと夏芽が疲れ果てて帰ってくるのを予測して、来てくれたのだろう。
「ありがとう。……きみがいなかったら、玄関でこのまま寝ちゃってたかも」
「ダメですよ。今日はメイクばっちりだし、こんな格好で寝たら肩凝っちゃいます」
 優しく笑って、手を引いてくれる。年下なのに、なんか今日の修吾君、お母さんみたい。そんなことをいまいち力の入りきらない口調で言うと、なにも言わずに彼は笑う。ソファに座ると、疲れのせいかアルコールのためか、意識がふわふわと遠のきそうになる。今お茶と風呂入れるから待っててください、と言う支倉の声に、ネクタイを緩めながら、欠伸と返事の間ぐらいのそれを返した。やがて風呂のボタンを押して戻ってきた支倉が、どうでしたか、と尋ねた。
「すごく、いい式だったよ。二人とも凄く幸せそうだった。友達の結婚式に出るのって初めてだけど……僕も、すごく嬉しくなったよ」
 今もまだ幸せな空気が自分のまわりに残っているようで、どこかふわふわしたような感覚がある。普段見た目に一切構わないトウヤがきちんと礼服を着せられているのを見ると、そのギャップが少し面白かった。そして、完全に衣装に着られている感のある新郎とは対照的に、豪華な純白のドレスに身を包んだ、一流の職人が精魂込めて作り上げた人形のように美しい花嫁。
「みなみちゃんのドレス姿とか超綺麗だったんだろうなー。いいなぁ、俺も行きたかったです。同じ事務所なんだから呼んでほしかったな」
 写真撮ってきたから、後で見せてあげるというと、仕事仲間ではなくただのファンの顔になった支倉がぱっと目を輝かせた。
 殻神トウヤと市河みなみの結婚式は、人気作家と売れっ子アイドル声優のそれとは思えないの規模で、親しい友人と親族だけを招いてひっそりとしかし騒がしく行われた。曰く、業界関係者を呼び始めると、どこまで呼べばいいのかわからなくなって収拾がつかなくなるからだという。トウヤにしても、仕事関係の参列者は直属の編集者だけだ。新郎側の参列者は親戚を除けば北海道時代の友人ばかりで、東京でできた友達なんてナツメぐらいという彼の言葉はかなり真実であったらしい。彼をトウヤと呼ぶのは、夏芽だけだった。新婦は新婦であの通り友人が多いとは言えない性格で、けれども何人かの女性たちが、本当に嬉しそうな顔でテーブルを囲んでいた。心から祝福してくれる友人が彼女にもいることに、何故か夏芽はほっとした。

 あの日。支倉と結ばれた次の日。トウヤの家につくなり夏芽は仰天した。ゴミこそ落ちてはいないものの乱雑さではゴミ屋敷一歩手前のような彼の家の玄関を開けて夏芽を出迎えてくれたのは、トウヤと、その家にはあまりにも不似合いな、見知った同業者の女性だったからだ。
 掃き溜めに鶴。こんなところにあって尚、彼女の硝子細工めいた硬質な美しさはそのままで。言葉を失った夏芽にトウヤは嬉しそうに、忙しいのに来てもらって悪いな、あ、それ土産? ありがとうそこの店うまいよな。などといつもの調子でまくしたてているのだが、頭にさっぱり入らない。ただ、優衣の推測は半分は当たっていたのだなぁなどとぼんやり考えた。
 呆然と立ち尽くしていると、すっと腕を引かれ玄関の中に引きずり込まれる。そのままドアを閉めると、相変わらずの無愛想な調子で、玄関開けてべらべら喋っていたら目立つでしょ、と冷たく言った。やっぱり透明感のある、綺麗な声だった。市河みなみに間違いない。照れもなにもない、ただただ嬉しいという感情の滲んだ声で、トウヤは言った。みなみと結婚するんだ、と。対照的にみなみはついと顔を背け、夏芽と目を合わせてはくれなかった。
 彼女がいつもに増して不機嫌に見えたのは間違いではなかったらしく、彼女も夏芽と同様、早朝に電話で叩き起こされ、ナツメに結婚報告するから来てくれと言われたらしい。しかも彼女は午後から仕事があり、夏芽に報告をしたら直ぐに都内に戻らなくてはならない。二十分ばかり微妙に気まずい時間を過ごした後、彼女は帽子を深々と被り、眼鏡をかけて出て行った。
「なんかみなみちゃんに迷惑かけちゃったみたいで、ごめん」
 そう言うと、トウヤはいいんだいいんだ、俺もなかなかあいつに会えねかったからいい口実になったしとさらりとのろけた後、夏芽の思いもよらぬ言葉を口にした。
「お前のことは絶対何があっても大切にして裏切るなってナナイに言われたんだわ」
「え?」
「なんかなんまリアルな夢だったな。頭おかしくなったかと思ったもの。いよいよ俺は妄想に負けたのかって思うぐらい」
 妄想に負けるというのは、彼の創作の動機だった。人並みはずれて速い彼の思考回路は、日常生活での余力を全て妄想に回してしまうのだという。それは本人の意図で抑えることも難しく、実際に知覚したことなのか妄想なのかわからなくなることがあるそうだ。だから、彼は妄想を物語というかたちで書き留める。そうすることでやっとそれが妄想だったのだと思えるのだと、以前彼は話してくれた。妄想が金になるぐらい人から見て面白いものでよかった、とも。
「夜中に原稿書いてたらいきなりピンポン鳴ってさ。こんな時間に誰だよって思って最初無視してたんだけどけどあんまり何回も鳴るから出てったっけナナイが立ってんの。それがおかしくてさあいつなんでかすっげー普通のそこらへんで売ってそうな服着てんの。だけどちゃんときらっきらの銀髪で目ぇ紫でさ、声も、お前がくれたあいつの声そのままで」
 夢じゃないよ、それ。それは、本物のナナイだ。そう言おうとして、夏芽はしかし口を噤んだ。彼のところにも来たのだ。生みの親のもとへ。「お前の手の込んだいたずらかとも思ったけどお前がどんだけコスプレしたってあんな顔にはなんねえし」と彼は言う。
 どうせ夢だ。ならこの夢を楽しんでしまおう。そう思って、トウヤはナナイと酒を飲み交わしたのだという。トウヤが故郷の地酒と塩辛を出したところナナイの反応は「ビールより美味しいね、これ」だったそうで、あまりにも普通のリアクションにトウヤは大ウケしたらしいのだが、夏芽の頭には支倉の家に転がっていたビールの空き缶が過っていた。