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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 朝方のひと気のない道を、そっと手を繋いで夏芽のマンションまで歩いた。自宅でも眼鏡を手放せないほどの夏芽の眼にはすべてぼやけて見えたけれど、隣に支倉がいてくれれば不安はなくて、いつもと違って見える世界が幻想的にさえ思えた。綺麗に澄み渡った空に、四月の緑色がふわふわと浮かんでいるようで、よく見知ったはずの道が、水彩画のように見える。
 夏芽のマンションの台所は支倉家のそれよりもずっと広くて使いやすく、ふたりで立つことができる。夏芽が服を着替え、朝食の用意をしている間に、支倉はお茶を淹れてくれた。夏芽の家の道具で淹れてくれた黒豆茶は、それでもいつも夏芽が淹れるのとは違う支倉の味がした。
 さすがに家を出る頃にはある程度人も出ていて、手を繋いでは歩けなかったけれど、夏芽の身体を気遣い、歩幅を揃えてくれるのが愛しかった。
 収録スタジオに向かう電車と、トウヤの家の最寄り駅まで行く路線は違う。それぞれのホームに上がる階段の手前で、妙に名残惜しくて電車を一本見送ってしまった。
 離れがたい。いくら思いが通じても、通じたからこそ。だから今日仕事が終わったら、うちに泊まりに来ないか、と誘った。それはこんな関係になる前、双方共に叶わないと思い込んだ片想いをしていた頃から何度もしてきたことで、今更特別なことではない。けれど、支倉は本当に嬉しそうに笑って絶対行きますと言って、鞄の陰に隠してそっと一瞬、手を繋いでくれた。
 ひとりになって電車に乗っても、まだどこか夢見心地で、もうコンタクトは入れているはずなのに世界がふわふわとして見えた。昨日から、――いや、違う、ナナイが突然この世界に現れたあの時から、あまりにも全てが物凄いスピードで進んでいった。
 一週間前の自分にここ数日の出来事を話しても、一割も信じてくれないに違いない。自分の演じた彼の声で話し、すべてを知る本物のナナイが現れるよとか、ナナイに代行者を代われと脅されただとか、ありったけの勇気を振り絞って支倉に告白したら、支倉は自分に一目惚れしてずっと好きだったと言ってくれたとか、もう、自分の声で話すことができるとか。何一つ、そんなことが起こるだなんて、想像もしなかったことばかりだ。
 すべてのきっかけになり、自分の背中を押し、自分の声が好きなのだと言ってくれたナナイは、あの後帰っては来なかった。夏芽の家も見てみたけれど、彼が帰ってきた痕跡はなかった。
 だけど、幻ではない。夢でもない。彼に渡したクレジットカードやSuicaは未だに手元にないままだ。彼はまだ東京にいるのだろうか。それとも、あるべき場所へ帰ったのだろうか。
 一度乗り換え、鈍行に一時間も乗ると、人ごみが苦手で、郊外に家を借りて暮らすトウヤの家の最寄り駅にたどり着く。しかし何度も行ったことがある道を間違え、見知らぬ住宅地に迷い込んでしまうほど、まだ地に足がついていない感覚がする。支倉と一緒に駅まで行きたくて余裕を持って出ていたから、時間は大丈夫だ。甘いバターの香りに惹かれてふと曲がってみた路地で洋菓子店を見つけ、お土産と結婚祝いがてら焼き菓子の詰まったバスケットを買った。
 香りに対して夏芽は人より敏感なのではないかと、昨夜支倉が言ったことをふと思い出した。今まで意識したことはなかったけれど、そう言われて支倉と話してみると、自分が感じている匂いの違いや強さが支倉には感じ取れていないのだと知った。けれど、夏芽は支倉ほど、音から多くの情報を読み取ることはできない。彼は音の響き方から、距離や壁の材質、部屋の形まで拾うことができるらしい。こんなところでも、お互いの感覚も、心も、自分のものとして感じることができないとわかる。伝えるための、理解するための努力をしなければ。そして、支倉はその努力をしたいと思える相手だし、支倉にとっての夏芽もそうであればいいと思う。
 ただ、その会話に至るきっかけが、彼が部屋の片隅から引っ張り出してきた紙袋に入っていた見るからにいかがわしい色のゴムに対して変な香り付けがしていなくて良かったと夏芽が口にしたことだったと思い出して、誰もいない住宅街で、ひとり夏芽は赤面した。情事のときのことを思い出して赤面するなんて、三十路にもなって何をやっているのかと思うけれど、そこから連鎖的にいろいろなことが思い出されてしまって、どうにも気恥ずかしくなってしまう。それを夏芽は、彼がその袋をもらってくるに至った経緯を思い出して笑うことでなんとかやり過ごした。それは支倉がある番組の打ち上げ兼クリスマスパーティのプレゼント交換でうっかり引き当てたものであり、贈り主は湯上だったそうだ。妙な色合いのゴムのほかローションやら見るからに破けやすそうなストッキングやらいろいろな品物が入っていてそんなものを誰がもらうかわからない場に持ってくる湯上のセンスに夏芽は唖然としたのだが、元はこの他に所謂大人の玩具も入っていたらしい。袋を開けた支倉が思わず呆然とし、使うあてなんかないと呟くと、いらないなら頂戴と言って何人かがめぼしいものを持ち去り、これは残り物なのだという。未成年の女の子とかに当たったらどうするつもりだったんだろう、と呟くと、幸いなのかなんなのか、エロゲ原作のアニメで未成年はいなかったという。それでもこれはあんまりだと思わないでもないのだが、どういうわけか問題にならないのが湯上の得なところだ。そこから連想して夏芽の家のベッドが湯上から押し付けられた経緯を話すと、支倉は大笑いしていた。
(まさか修吾君が僕相手に使うことになるなんて、ユノさん思わなかっただろうな)
 あの湯上ですら想像していないだろう今の状況が、少し愉快だった。誰が予想しえただろう?
(ゆいゆーは……勘がいいから気をつけたほうがいいかな)
 一昨日の時点では、みなみの彼氏が支倉なのではないかと疑っていたはずなので、この状況は予想していないだろう。とはいえ、彼女の観察力と推察力は鋭い。彼女に限って同性愛者だからといって冷たい目で見たりするとは思わないが、優衣や湯上、トウヤのような人たちには、いつか、機会を見て自分の口から話せればいいと思う。
(あ、僕、結構みんなのこと、大切なんだ)
 そんなことに今更気がついた途端、今までの接し方が、距離が、突然ひどく寂しいものに感じられた。
 誰かの心が自分のせいで揺らぐのが怖くて、自分じゃない誰かのせいにしないと話せなかった。まだ、支倉とナナイにしか見せていない自分。それをさらけ出すことを想像すると、今でもまだ心臓をぐっと掴まれるような恐怖がある。世の中はきっと、幼い夏芽が思っていたほど冷たく、恐ろしいものではないのだろう。頭ではわかっている。あの時自分を拒絶した母親が精神的にどうしようもないところまで、追い詰められていたことはもう知っているし、支倉のように温かい、空っぽだと思っていた自分をそのまま受け止めてくれる人にも出会えた。それでも、二十年以上背負ってきた恐怖と不安は、簡単に消えてくれるものではない。
 けれど、いつか、彼らにも、演技をすることなく話せる時が来ればいいと思う。そしてきっとその時は来る。支倉と、共に在れば。