この心が声になるなら
Never‐ending day,心と心を繋ぐ声を
ぼんやりと意識が浮上したのは、朝日が昇り始めた頃だった。うっすらとした明るさが、夏芽の部屋のものとは違う安物の薄いカーテン越しに感じられる。
隣を見れば、夏芽の頭を腕に乗せたまま気持ち良さそうに支倉が眠っている。そっと身を寄せると、借り物のシャツ越しに支倉の体温が感じられた。なかなか合うサイズが売ってすらいないという支倉の服は夏芽にはあまりにも大きく、シャワーを浴びた後、ある意味とても正しく所謂彼シャツ状態になってしまったのを見て、ふたりで笑った。歯を磨いて、いつものようについ使い捨てのコンタクトを外してから眼鏡を持ってきていないことに気付くと、じゃあ俺が夏芽さんの目になります、と言って、笑ってぎゅっと手を繋いでくれた。風呂場とトイレ以外のすべてが見通せる狭いワンルームだから困りはしないのだけれど、ふたりでベッドに入って眠るまで、ずっとその手は繋がったままだった。今日夏芽は一日オフだけれど、支倉は仕事がある。ちょっと早起きして一緒に夏芽の家まで帰って朝食を一緒に摂ろう、と約束した。視界は覚束なかったけれど不安はなにもなくて、ただただ、心が温かいものに満たされていた。
夢じゃなくて、良かった。貸してもらったシャツも、頭の下にある支倉の少し固い腕も、自分の私服ならば見えないが、襟ぐりの大きなこのシャツではちらりと見えてしまう、胸元に残る情交の跡も、腰に残る数年忘れていた痛みも、すべて、あの夜が現実だったことの証だ。
そっと、身体を支倉に寄り添わせた。全身で彼の温かさを感じる。触れ合った部分から、自分と少しリズムの違う、支倉の心音が聞こえる。心地よくてもう一度眠ってしまいそうだった。二度寝なんてここ数年した覚えがないのに。今日の目覚めはとても自然で、あんなことをした次の朝だというのにいつも体に澱のように残る疲れを感じなかった。それなのに、いつもよりも意識がふわふわとして、もっと眠っていたいと思う。
しかしその心地よい静寂を、空気を読まない携帯電話の着信音が盛大に打ち破った。驚いた様子で、支倉がぱっと目を開いてがばりと飛び起きる。夏芽にとっては慣れたそれでも、支倉にとっては予想していないものだろう。ごめんねと謝り、ベッドのすぐ下に置いたスマホを掴んだ。画面に表示された時間はまだやっと六時を過ぎたところで、こんなはた迷惑な時間に電話を寄越す相手など一人しか知らないから、名前もほとんど確認しないで受話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、ナツメナツメ! 俺だけど今日空いてるか? 大事な話があんだけどもさ直接会って言いたいんだけど!』
こんな時間帯だというのに聞く人が聞けば今流行の詐欺を疑われるような勢いで、けれどそんなことを微塵も考えていないのだろうトウヤがまくしたてる。落ち着きがなく、いつもに増してテンションの高いトウヤの声を聞いていると今まで気にしていなかった腰の痛みがちょっと増したような気がしてしまった。トウヤと話すのは楽しいけれど、なぜか妙に体力を使う。
「……電話じゃ無理なのか?」
『無理無理万一にでも盗聴されたっけ困るからさぁ昼頃とか俺んち来れない?』
あの何も、一般常識とかそういったことさえもろくに気にしないトウヤが、これほど慎重になることなんてひとつしかない。ぴんときた夏芽は、口元に手を当てて、声を潜めた。
「もしかしてそれ、きみの結婚のこと?」
いくらなんでも盗聴は心配のし過ぎか妄想だろう。相手が亡国の姫君とかでもない限り、一介の作家の結婚相手を知るために盗聴までされるとは思えない。が、その思考の過剰と彼にとっての現実を侵蝕するほどの妄想こそが北川融が殻神トウヤたる所以であるので、その点は流す。重要なのは、彼にとって、それだけの価値がある話だということだ。
『そうそうそう!』
「いい方向に進んだんだね?」
『ああ! お前とか家族とかなら話してもいいってさ。約束通りお前が最初だぜ、ナツメ』
電話の向こうの声が、誇らしげにきらきらしている。きっとそれこそたった今許可が出たところで、今すぐに呼びつけたくて、昼まで待ってくれるのは彼のなけなしの常識が働いた結果なのかもしれない。彼の喜びが全力で伝わってくるようで、なんだか心が温かくなって、いつの間にかするりと了承の旨を口にしていた。
電話を切ると、いつの間にか上体を起こして、心配そうな顔で支倉が見つめている。
「……出かけるんですか?」
「うん、お昼頃に、トウヤと話してくる。きみが仕事行くときに、駅まで一緒に行こう」
そう言うと、支倉の顔がはっきりと曇った。
「大丈夫ですか? その、……身体とか」
少し口篭ったのを、可愛いと思った。昨夜の行為を思い出してか、起きたばかりの支倉の顔にうっすらと紅が差していくのが、淡い明るさの中でもわかった。
「うん。優しくしてくれて、ありがとう」
からかおうという意図はなかった。実際、初めての男相手の行為でたどたどしいところはあったけれど、支倉はひたすら優しく、慈しむように、いたわるように夏芽に触れた。そんなにしなくても壊れないよ、ともどかしさのあまり口にすると、大事にさせてほしいのだと支倉は言った。それが彼の望む触り方なら、ちょっと気恥ずかしかったけれどそれもまた嬉しかった。
けれど、言うと支倉の顔が一気に上気して、ああもう、と言うなりぎゅっと抱き締められた。
「え、修吾君、どうしたの?」
長い腕で力強く抱き締められ、夏芽は状況がよく飲み込めずに支倉を見た。支倉は赤い顔のまま、困ったような、嬉しそうな、泣きそうにも見える表情で、夏芽の耳元に唇を寄せた。
「好き、大好きです、夏芽さん。なんかもう、好きで好きでしょうがないんです。……夢じゃ、ないですよね?」
心音が伝わるほどに密着した体。混ざり合っていく違う体温。力強い腕の感触。すべて昨日までは信じられないもので、だけど確かにここにある。これが夢なら、もう覚めなくていい。
「夢じゃないよ」
そう言って、夏芽は支倉よりは細い腕で、その大きな身体を抱きしめ返した。
「ずっとずっと好きだったから夢みたいなんです。だからつい、心配しちゃうんだと思います」
現実味が感じられないほど幸せで、だから夢みたいに消えてしまうのではないかと。うまく言葉を紡ぐことが苦手な彼の言葉を読み解くと、こんな意味になるのではないか。
「大丈夫だよ」
首を横に向け、あやすように耳の下にキスをした。ぴくりと彼が身じろぎをする。
「せっかくこんなに幸せになったんだから、……できるだけ長く、幸せでいたいよ」
だから、夢みたいになんて消えたりするものか。
共に言葉を生業にしながら、言葉の上手くないふたりは、それでもなんとかそれを埋めるために、夏芽が設定していた目覚ましが鳴るまで、ずっと抱き合ったまま、言葉と表情で、思いを伝えあった。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい