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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 先輩も同世代も後輩も、ほとんどの仕事上の知り合いは自分を名前、もしくはそれから派生したあだ名で呼ぶ。支倉と知り合った頃には既にそれがもう定着していて、同時期に夏芽の料理の常連になっていた面々も、ほぼ全員が彼を「ナツメさん」と呼んでいた。不思議には思っていた。けれど、特に追及する理由もなかったし、彼がそう呼びたいのなら別に呼び方なんてどうだって構わないと思っていたから、特に気にはしていなかった。だから少し驚いた。このタイミングで、呼び名を変えたいと言われたことに。
 支倉の表情が困ったように歪んで、うっと声を詰まらせた。やっぱり自分の言葉で誰かがネガティブな表情をするのは夏芽にとって何よりも恐ろしいことで、心に暗いものが差す。
「嫌なら、言わなくても」
「い、いえ! 言います、嫌じゃないです! でも」
 ちょっと、恥ずかしくて。普段とは打って変わった消え入りそうな声で支倉は続けた。
 やがて、名前を初めて呼んだときよりも遥かに真っ赤な顔で、声優としてありえないほどにしどろもどろになりながら、支倉はぽつりと告白した。
「俺があなたを呼ぶときに、すぐに俺だって気がついてほしかったからです」
 予想していない答えに、意味が掴みきれずに、夏芽はぽかんと支倉の顔を見つめた。その表情をどう解釈したのか、ますます支倉の顔が赤くなっていく。
「だって! どうせ俺なんてたくさんいる後輩のひとりだったし、高校まではいい声とかって目立つ声って言われてたけど、この業界なんだからそんなのいっぱいいるし。だから声だけだったら気付いてもらえないかもしれないって思って、他の人と違う呼び方で呼ぶことにしたんです。誰も呼ばない呼び方で呼んだら、遠くからでも、俺の姿が見えなくても、すぐ俺があなたを呼んでるって、わかってくれるんじゃないかって」
「修吾君……」
「馬鹿みたいですよね。でも、それでも、そんなしょうもない小細工しても気付いてほしいぐらい、ずっとずっと、好きだったんです……」
 言えば言うほど恥ずかしくなってしまったのか、どんどん語尾が小さくなっていく。それに伴って、視線も下がっていった。
 かわいい。愛しい。彼の想いが。思考が。自分を大事に思ってくれたことが。
 だから言わない。初対面のときからちゃんと、彼の声を覚えていたことは。代わりに、じゃあなぜ今名前で呼びたいのかを尋ねると、少しほっとしたように表情が緩んで、俺、夏芽さんの名前、好きなんです、と言った。
「すごく夏芽さんって、夏芽さんって感じがするんです。上手くいえないけど、名前と夏芽さんが、すごくぴったりな感じするんです。だからきっと、みんな夏芽さんのこと、名前で呼びたいんですよ。俺も、あなたに会う前から声と名前は知ってたけど、周りであなたのこと知ってる人もみんな夏芽さんって呼んでて、いい名前だなって。俺も、知り合いになったらそう呼ぶんだろうなって思ってたんですけど。……一目惚れするなんて、予想してなかったですから」
 本当はずっと名前で呼びたかった。でも、自分だと気付いてもらうほうを優先したのだと、支倉は続けた。
「でもきっと、今ならもう、俺の声覚えてくれてると思うから」
 そう言って、まだ赤い頬のまま、本当に嬉しそうに彼は笑った。
 したいこと、を指を一本一本折りながら数え、ひとつひとつ夏芽は応えていく。そのたびに照れたり、喜んだりと揺れるその表情が夏芽の中になにかを満たしていくようで、もう抱き締められてはいないのに、体がぽかぽかと暖かいような心地がした。そして。
「夏芽さんに、触りたいです。できれば……抱きたいです」
 今までで一番長い長い躊躇いの後に、支倉はそう言って、じっと夏芽を見つめた。
 大きくてくっきりとした瞳には不安と、そしてはっきりそうとわかる熱情が滲む。その目で見られていると思うだけで、身体の芯がじわりと熱くなった。厚みがあって柔らかな、夏芽の大好きな支倉の優しいその声に、隠しようもない雄の欲を聞き取った。音は確かにいつも通りの上質の毛皮のような感触であるはずなのに、その中に猫の舌先のようなざらりとしたものが潜んでいて、その声に肌を撫で上げられて、首筋にぞくりとしたものが走る。
「修、吾君……っ」
 名前を呼ぶ声が震えた。それは不安と、それ以上に歓喜からであって、けれど、その声音を、支倉は違うように解釈したらしい。その顔に占める不安の割合が、みるみる上がっていく。
「やっぱり、嫌ですか……? その、付き合ってその日にいきなりって、やっぱりちょっと慌て過ぎですよね、ごめんなさい、忘れて」
 半分泣きそうなその声に、慌てて夏芽は首を振った。
「嫌じゃない!」
 上体を前に伸ばして、支倉の肩をぎゅっと掴もうとして、ばちゃりと音がした。水の入ったグラスをひっくり返して、ふたりの服を濡らした。
「冷たっ」
 思わず声を上げると、支倉がさっとしゃがんで卓袱台の下からティッシュを何枚か掴み、夏芽の肘のあたりを軽く叩いた。ほとんどの水はあっという間に吸い出され、ひんやりとした感覚だけが残る。
「味噌汁じゃなくてよかった」
 思わずぽつりと呟くと、そういえば飯食ってたんでしたね、と支倉も言う。
 お互いに顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
「……あと、したいこと。夏芽さんのご飯食べたいです。毎日」
 そんなことを言って、本当に嬉しそうに笑うから、何も考えずにいいよ、と返事をしてしまう。やった、とぱっと大輪の花が咲くような笑顔を見せた後、はっとしたような表情になって、それからまた顔を赤くして、慌てて早口で言った。
「あ、俺なんかプロポーズみたいなことっ……」
 またも顔色がぐるぐると変化し始める。元々の肌がスラブ系じみて白いから、変化がはっきりと見て取れる。自分にはないもの。いつか自分もこんな風に、感じたまま笑ったり、怒ったり、泣いたりすることができるようになるのだろうか。そんな自分は、どう見えるのだろう。
「ひ、引いてないですかっ」
 その言葉に、引くわけないよ、と言うと、ほっとしたようにその表情が緩んだ。
 黙っていればとてもハンサムなのに、くるくると自然にいろいろな表情を見せる。そんなところも、好きだ。もっといろんな表情を見せて欲しい。いろんな声を聞かせて欲しい。もっともっと、支倉を知りたい。
(キスしたら、どんな顔するんだろう)
 どんな風に彼の表情と心は揺れるのだろう。以前だったらそれは恐怖を強く強く呼び起こすものだった。今も恐ろしさはあるけれど、それでも、それ以上に、知りたかった。
 好奇心と愛しさに抵抗せずに、すっと夏芽は上体を伸ばして、支倉の頬にそっと口付けた。
 色の違う肌は自分のそれとは違う質感をしていて、離れがたくて、興味が沸いてついちろりと舌で舐めてみた。びくりとその体が震えた。
 嫌だっただろうか。慌てて唇を離すと、見たこともないほど赤い顔をした支倉が、大きな目を更に真ん丸にして、小さくはない口も大きく開いていて、――しかし表情のサンプル画像のような完璧な驚き顔の中に、喜びと、そしてそれ以上の熱を見つけてしまって、思わず夏芽は息を呑んだ。
 けれど、その悪戯心に対する後悔は、欠片もなかった。