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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 裏返った、慌てた声で支倉が普段とは打って変わった早口で夏芽の名を呼んだ。その手のひらの熱さが伝わって、夏芽の体温まで引き上げられていくようだった。
「なに……?」
「あの、その、……ご飯食べ終わったら、キスしていいですか!?」
 その言葉の意味が一瞬わからなくて、夏芽は瞬きの仕方さえ、忘れた。文節の前後が、うまく繋がらない。
 夏芽の反応がないのを拒絶ととったのか、支倉の目が落ち着きなくぐるぐると回り出す。
「あ、ご、ごめんなさい、その、えっと、あ」
 その大きくくっきりとした目が焦点を結ばずに彷徨い、日本人離れして白いはずの肌は真っ赤に染まったかと思えばどんどん青褪めていく。
(こんな顔、させたいんじゃないのに)
 不安に揺れるその顔をそれ以上見たくなくて、笑って欲しくて、夏芽の右手首を掴む手が離れそうになったところに左手を重ねて、ぎゅっと力を込めた。
「いいよ」
 むしろ、食事の後なんかじゃなくていい。今すぐだって、してくれたら、拒むわけがない。だってずっと、ずっと触れたいと思っていたのに。
「今すぐでも、いい」
 嬉しかった。この沈黙が照れくささとかそういったものから来るものだと予想はついていても、確信ではなかったから。普段いつも穏やかで、一生懸命になると結果空回りすることはあってもあまり慌てたり動揺したりすることのない彼が、ここまではっきりと心を揺らして、自分を求めてくれたことが。
 支倉の顔をじっと見つめた。先程青褪めていた白い頬には血の気が戻り、それを通り越して信号機のように今度は赤く染まる。大きな瞳は右へ左へと揺れ動くばかりで、目は合わない。
 あー、とかうー、といった、意味のない声の後、支倉はぽつりとこう言った。
「今すぐだと、俺の口多分納豆と漬物の味しちゃいます。だから、食べ終わって歯、磨いてからのほうが……」
 心にふわりとなにか温かいものが広がる。年下で、元々は弟のような存在だったとはいえ、自分よりはるかに体格の良い男を、心からかわいいと思った。
「僕だってそうだよ。一緒におんなじご飯、食べてるんだから」
 思わずくすりと笑って、かけた声がひどく柔らかくて、ふわふわのシフォンケーキのように甘く、軽かった。きっと今自分の心も声帯も、支倉にとろかされきっているのだ。
 好きだ。好きだ。その想いはもう、二年も変わらない。けれどもうその感情に痛みと苦しさはなくて、もっと温かくてやわらかい、優しいなにかだけがここにある。
「支倉君、大好き」
 そう、口にした瞬間、がたんと音がして、いきなり頭を卓袱台越しにぎゅっと抱え込まれた。そのままわしゃわしゃと髪の毛を撫でられる。その手がひどく心地よくて、頭の重みを支倉の肩に預けた。
「あーもうっ、降森さん好き過ぎて俺凄く変な奴になってるっ」
 なにこれ、中学生か、童貞かなどともごもごと呟く支倉がひどく可愛く思えた。触れたところから伝わる体温が温かい。
「好きです好きです大好きです! もうドキドキし過ぎてどうしていいかわかんないっ」
 支倉の心臓の音が聞こえる。それは先程、ナナイの見ている前で抱き締められ、想いを伝え合ったときよりも早いぐらいだ。
「きみのしたいように、すればいいよ」
 そんな想いが通じあったからといって、いきなり恋人らしい振る舞いなんて、求めていない。ムードなんていらない。もし彼がそういう風にしたいのなら勿論構わないけれど、今まで通りにしてくれていたって、きっと物足りなくなんかない。そう告げると、しかし、支倉は無理です、と小さく言って、抱き締める腕の力強さが増した。
「せっかくあなたが俺のこと好きってわかったのに、今まで通りなんて、無理です。折角だからもっとあなたと近づきたいし、いろいろ話したいし、でもなんか照れくさいっていうかー……あー、今まではどうせ好きだってばれないと思ってなんかもう開き直ってたんですけど、あー、もう、どうすればいいんですかー……」
 酒も入っていないのに段々と呂律の怪しくなってくる言葉が、彼の緊張と戸惑いと、それに喜びも表しているようで、支倉がより愛おしくなると同時に、自分の中の混乱は落ち着いてくるようだった。
 抱き締められたままでどんな顔をしているのかは見えない。するりと腕を伸ばし、夏芽のそれとは違うふわふわした質感の髪の毛を撫でた。素直にその手を受け入れながらも、やっぱりだめだ、格好良く決めたいのに、なんで俺年下なんだろ、などとぐだぐだと呟く声が聞こえる。
「やっぱり降森さんには勝てないのかなぁ」
 吐き出したその言葉は、はしゃぎ過ぎてしまった後の犬のように情けなく、どうしようもなく心が温かい。この関係に勝ち負けなんてないだろうに。歳の差があるのは仕方のないことで、こればかりは追いつかれることはありえない。
 年下で後輩だったから、先輩として新人の彼が困っているところに出会えた。要領が悪かったから、酒癖の悪い先輩から逃げ損ねたところを助けてあげようとして、弱い本当の姿を晒してしまった。空っぽだと思っていた自分に温かい気持ちを注いでくれたから、彼に恋をした。どれかひとつでも違っていたなら、今この温もりはないのだ。
 ふふ、と笑い声が知らず漏れた。
「なんで笑うんですか」
「ん、うれしくて」
 うれしい、と夏芽の言葉を反芻するように、支倉が呟く。それを聞いてもう一度、うれしい、と繰り返した。
「考え過ぎないで、きみのしたいことすればいいよ。なにが、したい?」
 そう言うと、少し躊躇ったような間があってから、少し掠れた声で言った。
「えっと、……ほっぺた触ってもいいですか」
「いいよ」
 抱き締められていた腕が解け、そっと、支倉の大きな手のひらが頭から離れて夏芽の痩せた頬に触れた。少し目線を上に上げれば、これ以上ないほど真っ赤に染まった、少し困ったような支倉の顔があった。輪郭を確かめるように、指先が動く。
「……やっぱり、キス、したいです」
「うん」
 応えると、支倉の大きな目が右へ左へと動いた後、きゅっと引き結んだ唇が、夏芽の額に押し当てられた。ちゅっと小さなリップノイズを残し、離れていく。
「俺のこと、名前で、呼んで欲しいです」
「いいよ、――修吾君」
 精一杯の愛しさを込めてその名前を呼べば、支倉が息を呑んで、それから嬉しそうにその顔に笑みが広がった。
「俺も、名前で呼んでいいですか」
 頷くと、暫くあー、とかう、だとか意味を成さない声が続いた後に、一音一音かみ締めるように、ゆっくりと、「夏芽さん」と口にして、照れくさそうに笑った。
 その様子が、嬉しそうに名前を呼ぶ優しい声が、愛しい。けれどふと気になったことがある。
「どうしてきみは今まで、僕を苗字で呼んでたの?」
「え?」
「大体の人は僕を名前で呼ぶでしょ。きみぐらいだったから、僕を『降森さん』って呼ぶの。どうしてかなって」