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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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「それに、一日でもしかしたら運命の出会いでもあって、この世界に残ることになるかもしれないしね。結局旅続きになるのは変わらなくてもさ。その時はまた遊びにでも来るさ。……ああでも、そうなったらお前の仕事が減っちゃうね。ボクらの物語はまだ続いているんだろう?」
 ナナイのその言葉に、夏芽は一瞬きょとんとして、それから、思い出す。彼の声が、自分の声であることを。
「そうだね。帰ってもらわないと困るよ。僕はまだ、きみを演じたい。もっと知りたいんだ」
 彼が何を考えていたのかを。どう思っているのかを。結局、自分は自分にしかなれない。見ない振りをしても、忘れようとしても。それを知って演じる彼は、どんな感覚がするのだろう。
「そうだろ? ……期待してるよ、ナツメ。ボクに最高の、ボクをくれ」
 そのときのナナイは、まだ夏芽が演じたことのない声で、笑っていた。完璧な造作の褐色の貌に、花のような笑みを浮かべて。
 こうして、物語のような、話したところで誰も信じてくれないであろう四日間は終わった。

 数時間前までの嵐のような時間が嘘のように、支倉の狭いワンルームマンションには沈黙が満ちていた。
 微妙な気まずさに似たものを抱えつつ、夏芽はコンロに向かっていて、支倉はテレビを観ている。が、お互い心ここにあらずなのは明白だ。夏芽の指先には既に絆創膏が二枚も巻かれているし、ルールさえきちんと把握しているかどうかすら怪しいほど野球に興味がないはずの支倉が眺めているのはナイター中継だ。夏芽が故郷の球団を応援しているのは知っているはずだが、今テレビで放映されているのはそのチームでもないどころか、違うリーグの試合だ。恐らく支倉はその違いも知らないだろう。ちらりと部屋に不釣り合いなほどに大きな画面に目を向ければ場外満塁弾が飛び出したところで、球場や実況はえらく盛り上がっているようだが、それを会話の糸口にするでもない。ただ、画面に顔を向けている、それだけのように見えた。
 ナナイがいなくなった後、ふたりきりになって顔を見合わせてみれば、お互いがほぼ同時に顔を赤くして、言葉が出なくなってしまった。離れがたくて、でも何を言っていいのかわからなくて。元々お互い口数の多いほうではないし、やはり言葉を発することへの恐怖が完全に消えたわけではない。伝えたい思いは身体の芯から次から次へと溢れてくるのに、それを伝えていいのか躊躇ってしまう。きっと支倉はそれを受け取ってくれる、母にされたみたいに、泣きながら拒絶されたりはしない。そう思ってはいても、三十年近く染み付いたものはなかなか消えてはくれない。ナナイに千尋の谷の淵で思い切り背中を蹴り落とされるかのような後押しを受けて想いを伝えることはできた。その後も勢いでしばらく話すことはできたけれど、一度言葉が途切れてしまうと、上手く言えなくて、ただ、支倉の背に回した腕に力を込めるだけ。
 そうこうしているうちに、支倉の腹の虫が盛大に悲鳴を上げ、困ったような顔で支倉は片手を思わず口元に当てて、抱きしめられていた腕が解けた。
 離れた体温に寂しさを感じて、自分が怖くなった。たった十数分のはずなのに、この体温に馴染んでしまったことが、怖かった。
「なに、食べたい?」
 長い長い沈黙の後、やっと夏芽の口から出たのはその一言で、それに対する支倉の答えも、降森さんが作ってくれるならなんでもいいです、とそれだけだった。その声はどこか固かった。
 幸い秋田の実家から大量に食料が送られてきたところであったので、支倉の家にあるものだけで夕飯の材料は事足りた。しかし無かったら無かったで近所のスーパーまで買い物に行くことになったはずで、もしそうなっていたら間違いなく荷物持ちとして支倉がついてきてくれただろう。それはそれでこの空気を打開するきっかけになったかもしれないのにと思うと、支倉の家族の間の悪さをお門違いとはわかっていても少しだけ恨めしく思った。
 それでも、ほとんど無意識に手は動く。たとえ二回ほど指を包丁で傷つけてしまっても。そういえばその時に「痛い」とでも言っていれば、支倉はこちらへ来てくれただろうか。どうして自分は仕事用の鞄に絆創膏を常備してしまっていたのだろう。やがて、炊飯器が無機質な電子音で炊き上がりを知らせる頃、タイミングを綺麗にそろえて味噌汁、野菜と卵の炒め物、納豆と薬味を乗せた冷奴に漬物という簡単な夕食が完成した。
「支倉君」
 声を掛ければ、演技ではないかと思ってしまうほどにその大きな体がびくりと跳ねた。はい、と返事する声も、半ば裏返っている。
「ごはん、できたよ」
 なんでもない、絶対に相手の気分を害するはずのないその言葉すら、やはり妙に舌足らずな響きになっていることに自分で違和感を感じる。役を作らないで話すなんてほとんど初めてに近いから、素の自分の喋りがこんな風だなんて、知らなかった。
(もしかして、この声が嫌なのかな)
 支倉はよく、夏芽の声を褒めた。温かい、おひさまみたいな色の声だと。音に色を感じる、という感覚は、夏芽にはわからない。試しにいろいろ声色を変えてみたが――自在に声帯を操る支倉のそれに比べれば、声域的にも質的にも変化は小さいのだが――、どんな声で何を言おうと、その色は変わらないのだと彼は言った。
 今のこの声は、声色としてはほとんどいつも「ナツメ」として話すのに使っていたそれと変わらない。けれど彼にはどう聞こえているのか、それが怖かった。彼の感覚も心の裡も、夏芽には知りようがないから。
 好きだと言ってくれたのは確かだ。抱きしめてくれた腕の熱さも、ちゃんと現実だ。それはわかっている、それでも怖い。こういうときどうすればいいんだろう。誰かと恋愛関係になるなんて初めてでもないのに。
 上京するときに実家で余っていたのを持たされたといういまどき珍しいレトロな卓袱台を囲んだ時、強張っていた支倉の顔が僅かに綻んだ。並べられた素朴だけれど温かい料理に、ふわりと穏やかなものが端正な顔に広がる。けれど、「いただきます」の声はいつもよりもやっぱり固くて、それが寂しく思えた。
 ぐるぐると思考が渦巻く。それでも味だけはしっかりわかって、自分の食への執着には自分でも半ば呆れる。塩加減を誤ったのか、いつもより若干薄味なように思えた。支倉はわりと濃い味が好みだったはずで、こんなところから自分がいかに動揺しているかがわかってしまう。自分にとってすら薄く感じるのだから相当だ。
 折角なら美味しいものを食べさせてあげたいのに。自分の数少ないとりえでさえ失敗してしまうなんて。情けなくてため息が出そうなのをなんとか堪えながら、醤油差しに手を伸ばした。
「え」
「あ」
 安物の醤油差しの上で、同時に伸ばした指先が触れた。触れたところからなにか温かいものが流れ込んでくるようで、どこの少女漫画のヒロインだと思う。いい年した、交際経験だってある男が。気恥ずかしくなって手を引っ込めようとしたけれど、しかし腕は戻らなかった。
 逃げようとした手首を、支倉がぎゅっと掴んだ。
「あ、あの、降森さんっ」