この心が声になるなら
ナナイを演じたことが役者として主観的にも客観的にも大きな転機となったのは間違いない。そしてこの役がなければ、支倉と出会うタイミングはきっと違っていて、スタジオの隅で蹲る彼に声を掛けたのは自分ではなかったのだろう。誰にも手を差し伸べられることなく彼は故郷に帰って、お互いの存在すら知らないままだったかもしれない。あの作品の収録帰りの飲み会がなければ、情けない姿を支倉に見せることも、空っぽの自分を受け入れてもらえる感覚を知ることのないまま、彼に恋をすることもなかった。そして四日前にナナイがここに現れなければ、きっと自分はいつまでも、近づけないことも苦しいけれど動くのも怖い、そんな泥沼から抜け出せないままでいたのだろう。
ナナイに出会わなければ、今の自分はなかった。今の、このまるで夢じゃないかとすら思う、ナナイに見られていてもなお、離れないでいてくれる温かな腕も。
「本当に、ありがとう。……そうだ、支倉君の好きな人が誰かを、教えないでいてくれて、ありがとう」
「え?」
今度はナナイだけじゃない。支倉もほぼ同時に間の抜けたような声を上げた。
「さっき、それを知ってればすぐハッピーエンドだって、言ったよね。でもね、きっとそれは、ハッピーエンドかもしれないけど、トゥルーエンドじゃなかったよ」
「トゥルーエンド?」
ナナイが首を捻る。
「物語の真相が明らかになる、本当の結末ってことだよ。支倉君が僕を好きでいてくれるって知ってたら、多分僕は今みたいな気持ちでいれてないと思う」
迷って、うろたえて、恐怖して。だけどきっとこの数日の思いは、無駄じゃない。そうでなければ、自分の言葉と声を取り戻すことはできなかっただろうから。情けない自分のままで支倉に思いを伝えたいと決意することはできなかったから。それができないまま彼の恋心を受け入れたとしても、きっと今までと同じような経緯で、別れを選んでしまうような気がする。
「いろいろ迷ったり考えたりしたから、本当に、大丈夫だと思えるんだ。だから、ありがとう」
きっと今、自分は笑えている。笑顔を作ろうと思うことなく、心から笑えているはずだ。けれどナナイは、夏芽の顔をまじまじと見つめた後、やれやれと大袈裟にため息をついてみせた。
「まったく、本当の本当にお前って面倒くさい奴だよね。本当にいいの、シュウゴ? 絶対苦労するよ?」
からかうような呆れたようなその言葉に、しかし嬉しそうにはっきりと支倉は答えた。
「最高だよ、それ」
どうしてそんな風に笑えるの。見たこともないような、満開の笑顔に、夏芽の心臓が大きく跳ねた。心音の変化に気がついたのか、心配そうな顔ではっと腕の中の夏芽を向いた彼は、しかしとろけんばかりの目で笑って、甘い声で、「降森さん、顔すごい真っ赤」と言った。
ああもう、さっきから泣いたり笑ったりそもそも自分の声で話したり。今までできなかったことが次々と出来てしまってどうしたらいいのかわからなくなりそうで、その上赤面だなんて。
急に照れくさくなって、支倉の顔を見ていられなくなって、思わずぼすりと支倉の厚みのある胸に顔を押し付けた。その頭に、支倉の大きな手が触れて、夏芽の細い髪を梳く。
「…………ごちそうさまでした、本当にもう、お前たちはさぁ」
どうしてシュトルとリーネの奴らといい、ボクの周りは恥ずかしいカップルばかりかな、とため息をついたのが聞こえたけれど、間違いなく、その声は楽しげに笑っていた。
確かに夏芽と同じ、だけど、間違いなくナナイだけの声で。
「じゃあ、ボクはもういいや」
とても、とても凪いだ声で。夏芽は顔を上げた。
ナナイは、笑っていた。ずっと浮かべていた、嘲るような、からかうようなそれではなく、声音と同じく夕暮れの凪のような、穏やかで、ほんの僅かに寂しさを残した笑顔で。
「こうなっちゃったらこの世界にいれるのも残り一日だしね。ボクはボクなりに楽しんでいくよ。それじゃ」
「待って!」
するりとふたりの横を一瞥もせずに通り抜け、外へと出て行こうとしたナナイを、夏芽は考えるよりも先に呼び止めていた。
ゆっくりと、背中を捻るようにして、ナナイが振り返る。先程まで寂しさが締めていた部分に、戸惑いと困惑を浮かべて。
「なんか用? まだ、知っておきたいことでもある?」
「いや、その」
知りたいことはない。一番知りたくて、知りたくなかったことは、もうわかった。後わからないものはトウヤの婚約者ぐらいだが、それは話してくれていないということが寂しいのであって、トウヤ本人から聞かなければ意味のないことなのだ。支倉の想いの在り処と同じように。
そうか、ナナイはいつも、こんな世界で生きているのだなと、夏芽は初めて実感した。彼として、声を出していたというのに。
答えに意味があるんじゃない。誰から得る答えなのか、どうやってそこにたどり着くのかに意味がある問いが、この世界にはたくさんある。攻略サイトを使ってしまえば得られない、ゲームの達成感のように。
「……もう、行っちゃうの?」
だから、それだけを尋ねた。
「うん」
「あと一日、あるのに」
「あんなにボクが家にいるのがストレスですさっさと帰ってくださいひとりにしてくださーいみたいな雰囲気漂わせておいて、今更何言ってんの」
からかうように笑う、その声が、いつもと変わらず軽い質感で、だけどひどく温かかった。
「それは、きみが」
「ああうん。だって面白いんだもん。演技には自信あるって言ってるくせに、確かに凄い芝居するし口では全然何考えてるか言わないのに、わりと簡単に揺さぶられるし」
「……そんなに、わかりやすい?」
役者として、それはどうなのだろう。そもそも普段の、ここに来るまでの夏芽は、いつもの「ナツメ」だったはずなのに。
しかし、ナナイは目を閉じて小さく首を振った。
「いや、他の奴だったら多分わからないと思うね。実際シュウゴだって、ナツメがこんなにちょっとおかしいぐらいシュウゴが好きなのに気付かなかったくらいだ。ま、それはお互い様なんだろうけどね。わかったのは、ボクだからだよ。お前が演じた、ボクだからだ。ボクの声はお前が演じてくれたものだけど、お前とボクは同じじゃない。それと同じだよ。ボクたちの前で、ずっと芝居をしてるんだってのはなんとなくわかった」
それにお前がどう思ってるかは、わかろうとすればわかるし。そう言って、にやりと笑った。
「お前たちにはこの四日間で十分愉しませてもらったからね。せっかく違う世界に来るなんて、普通ありえないことができてるんだ。あと一日、この世界を観光して帰るよ。とはいっても、一日でどこまでいけるかわからないけどね。戻ったらせいぜいあいつらに自慢してくるよ。信じてもらえないかもしれないけど。だって自分たちの世界が誰かの作った物語で、その作者のいる世界に行ってきましたなんて、そんな物語みたいなこと、信じられるか?」
物語の世界の人間が、そう言って笑った。彼に声を与えた、役者の前で。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい